エルリはあります強火系の我、「原作ファンだからCP目線は避けてた…」ていう見方がいまいち意味分からないんですよね。誰しも最初は妄想加えず読むし恋愛感情を明示されない人間関係をそうとせず読むにせよ、人間関係の描写で、ああ同性愛的な感情に近いのかなと解釈するのはCP(妄想して楽しむ)目線とは違うと思われ…
弓ヒスは同性愛として解釈できる、ならエルリだって、少なくとも病室場面から二人の物語はフォーカスされてるんで、各登場人物注視して読んでれば解釈の一つとして普通に出ますでしょ。寧ろあの二人の場合、否定する材料がないので否定ありきで読む感覚がわからない。
少年漫画にそういう関係がギャグでなく人間関係の一つとして描写されることがまだまだ珍しくて、そう読むのに抵抗があるということだよね多分。
少女漫画は70年代からマイノリティを描いていこうという取り組みは作家単位でチャレンジされてきたけど、少年漫画遅れすぎてない?ひばりくんで描いたつもりになって終わってんのかな?という部分もあるけど、結局ホモソが男の友情なるものをひたすら美化してきて、そうでないものは尊い人間関係ではない、て扱いしてきた弊害て気もしますねえ

いまどき海外ドラマなら、あれだけの数の登場人物をそれぞれフォーカスして進む物語で、同性愛者がいない方が「??」てくらいじゃん。(世間に存在していることを前提としたシナリオになってるよね基本)
そういうの、映画オタで評論も読んで傾向や構造とか研究熱心なhajimeが無視するわけなく、世界中に読者視聴者がいることをアニメS1(2013)のときにはしっかり意識してたよね。
エルヴィンの右腕もげてあの病室シーンがあったのはS1のほぼすぐ後。
アニメだとカットされた部分があるけど、あの二人の関係がフォーカスされだして、二人の物語の筋が始まった最初と言っていい。
あそこからさりげに挿し込まれる(눈_눈)のエルヴィンへの感情描写を読むに、多分同性愛としての解釈は敢えて否定しないように描いてると思うんだよね。明示できないのが10年以上前スタートの作品の限界とは思うけど。

少年漫画の男同士の激重感情てならゆぎおの海闇も相当で、CPヲタへの福利厚生も、最後の劇場版で超時空補完された今はもうエルリと張ると思ってるけど、和希は同性愛として描くことは全く想定してなかった(過去形😭)だろうし、凡夫の枠を逸脱した特殊超人キャラクター海馬くんの、これまた現世の人間ではなくなった特殊な存在である王たまちゃんへの異常な執着を全力肯定した結果でしょう。あくまで、私達のような血に足つけた凡夫としての存在から解放されたキャラクターたちなので…
でもンゲキは人間を描くことに注力してるんで、エルリみたいな大人同士の人間関係で、他の組合わせの友情の描き方と一線を画す形にしてるんだし、同性愛解釈の可能性すら未だに「あってはならないもの」みたいになってるのは、やっぱし、うーん…てなってしまう。
スタッフの言い方も遠回しなんだよね。「二人の間のことは自分たちだけが分かってればいいと(눈_눈)は思ってる」とか。そりゃそう言われるとドラマチックだしさ、定義しないのがいい、て考えは分からないでもないのよ。
けど、何故定義しないほうがいいのかな~てのを考えてしまうな。

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エルヴィンの死の場面を、レズビアンカップル主人公ゲームに影響を受けてると明言したのは、話の構造(二人の間でなされた選択がとんでもない結果を生んでいってしまう果てに、避けたかったつらい選択をする展開)のことだとは思うけど、あの話が二人の間に人生の手綱握り合うほどの恋情あってこその部分も含む段階で、その部分もエルリに入ってくるのは否めないよね。だってそこ、まんまじゃん?
hajimeも、同性愛の可能性を否定する材料も意味も無いとくらいは思ってんじゃないのかなあ?
「恋愛は描くのに恥ずかしさがあって…」とか言っちゃってるから、「そうかもしれないけど恋愛と銘打って描こうとすると手が止まっちゃうんで、敢えてそう考えないで描いた」的なのはありそうだけども

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