ところで少し前にですが映画『首』を観てきました。その感想というか思った事(bluesky投稿内容のほぼ再掲)
北野武の描きたかった戦国物語をぶつけられて気圧されましたが歴史フィクションとして楽しめました。それと同時に歴史フィクションの描き方の差異、早い話が『首』は楽しめたのに『ナポレオン』は何故いまいちだったのかをずっと考えているところです。
『首』の秀吉はコミュニケーションの面弟の秀長に大きく依っていて、その兄弟でじゃれ合い()ながら場を切り抜けていく関係性(+黒田官兵衛を加えて三人で羽柴秀吉を成り立たせている)描写が好きだったのですが、これって一般的なイメージとは大きく異なりますよね。他にも不憫で純粋な面のある荒木村重とかかなり自由な解釈で人物を描いているにもかかわらずイメージ齟齬で話に集中できないという場面はなかったです。『ナポレオン』では大分ナポレオンにはないイメージの付与に文句を言っていたのにこの差は何なのだろうと。
映画『首』を観て思った事続き(bluesky投稿内容のほぼ再掲)
これに関しては歴史物を通して描きたい内容が伝わるかどうかという点と、改変部分含めてフィクションとして面白いかどうかが重要なのだろうなとは『首』を観て思いました。『首』は織田信長臣下の武将間の衆道とそれが内包されているホモソーシャルの世界に、武士だが農民出身でその価値観からは外れている秀吉の視点、そして侍大将になりたい農民の茂助や芸人等の武将以外の視点の話が組み合わさってちゃんと一つの物語として成り立っているのが強かったです。『ナポレオン』はナポレオンとジョゼフィーヌのロマンスと戦争の悲惨さ(ラストのテロップからの類推)がかみ合わず別々の話を観ているような気持ちにさせられたのが今ひとつに感じた理由の一つだったので。