ゴールデンカムイ、
北海道で教育があった人が「とっかかりとしてもダメ」というのを見たけど、

オレのよーな関東生まれの登校拒否児は、本当に本当にアイヌのことを知ることができなかったので、あそこから本を積んで調べることはできた、というのは、とても個人的なケースとしてご報告したい。

むしろ本を積めば積むほど「ダメだ。。」という気持ちは強くなる。「エンタメとして面白いこと」と「差別を正しく伝えること」は両立できないもんだな、と思う。

そら、エンタメとしたらアシリパさんが強いアイヌで杉元と仲がいい方が面白いに決まってるし、周囲の荒くれ者たちがビタイチアイヌ差別をしない方が気持ちいい(芸者の子の尾形を「山犬」と揶揄する鯉登がアイヌのアシリパさんに優しいなんてあり得ない)。

ただ、野田サトルは個人的に何百万もアイヌの資料を買い集めたり、超少数民族や消滅寸前の言語話者に直接取材をしてそれをエンタメにしたんスね。それは文化搾取なんだけど。

それでも、「ゴールデンカムイがきっかけでアイヌが教科書に載るようになりました」みたいな国では

ベターの下の下、ではあるけど、それでもきっかけになりました、という人間はおりました、というご報告、です。

ゴールデンカムイについては「マンガにジャーナリズム背負わせんのやめろよ」とゆーのはあってさあ。

あれは本来、バカのB級グロアクションであって、「エンタメ面白」側のものなんですわねえ。

だけど、アイヌについてジャーナリズムが完全な沈黙を貫いていたから、うっかり「大和でちゃんと取材をしたアイヌ物語」に「されてしまった」。

ゴールデンカムイはアメリカの古い西部劇を北海道でやりたかった作品で(作品キャッチコピーも『闇鍋ウエスタン』なんですよ)、
批判についても、アメリカの先住民と同じ批判を受けるのは当然の作品なんです(話しが展開したのち、司馬遼太郎的な軍国が顔を見せたのはまた違う批判)

でも、本邦、ゴールデンカムイが出るまで、ジャーナリズムも文学〜サブカルチャーも水面下で静かに息をしていて、どんどん消されて行ったわけで。

1986年には当時の首相(中曽根康弘)が「単一民族発言」、、「日本に少数民族はいない」というほど、日本・・・大和中でのアイヌの知名度は下がっていて。

単なるバカアクション西部劇としてしかるべき批判があったはずなのに、日本のアイヌの知名度を左右する作品に「されちゃった」のは、それはジャーナリズムのせいじゃねーのかい

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おれはゴールデンカムイが大好きだったから、職業ライターの時も、個人的にも、いろいろ調べて文章を書いたから、少なくとも作品そのものに関してはちょっとは詳しいと言うよ。

その上で、
政治的には全く賛同できないけど

エンタメとしては
過去の映画のオマージュや画力をフル活用したアクション、現実の要素を繋ぎ合わせてカタルシスを作る構成力、女性の性消費を拒む矜持、(アシリパさんを性消費したら容赦しねえ、とはそれは野田サトルが言っていた)(反面、男性消費があるじゃんという批判は強くあり)

26巻の札幌ビール工場の、大人数のバトルの画面転換はアレは一巻丸ごとで本当に見事でねえ。。あんなに人数出して各バトルの駆け引きとシーンを絶妙に交錯させてダレさせない、素晴らしい時間のコントロール

なんで売れちゃったんだよ〜ってのがすごいあるかな。。チャンピオンREDとかの尖った漫画雑誌でサブカルサブカルしときゃよかったのに

面白いのは別として、文化搾取はしているので。間違いなく。その批判は完全に別。

とは言え、元から知識セットのある人が「きっかけとしてもあり得ねえ」っていう気持ちは分かるよ。

おれも、発達障害啓蒙として描かれてる漫画(作者の方は社会的にも啓蒙活動をされていてとてもありがたい。当事者会で使うカフェとかにはよく置いてある)で、スゲー嫌いな漫画あるもん。主人公の表象で発達障害が善人のようにイメージされるのが嫌だ。

ただ、知識ってのは人による。それを補填するのが義務教育のはずなのに、本邦ではそれがとても弱いので、じゃあエンタメきっかけで仕方ないが。。というのはある。

ただし、これらトゥートの全てはわたしが倭人として言ってることで、アイヌが見て「黙ってろ」と言われたら返す言葉はない、というのはもちろんそう。

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