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愚にもつかない信念や区別に取り囲まれた今のような生き方のすべて、事務所や工場で費やされる生活の全くの無意味性を、あなたは正面から見据えなければならない。そのような生活の終わりに死が訪れる。あなたはこのような混乱のすべてを曇りなく見抜かなければならないのである。

私たちはほとんど独立した思考や感情というものをもちません。思考や感情が起きるとき、それらはたんなる反応で、だからそれは既成のパターンから自由なものではないのです。

「私」は記憶の束です。それは時間であり、単なる時間の継続は、あなたを時間を超えた永遠なるものへと導くことはありません。

意見を養い、それを鋭利で堅固なものにしていくことはできる。そして我々のほとんどの行為はこの好悪原理に基づいている。経験と知識は堅固にされ、それは行為に現れる。けれども、そのような行為は人と人とを互いに分かつものとなる。意見や信念こそは、在るがままにものを見ることを妨げるのである

生きることの意味を十全に理解するには、私たちは自分のこんがらがった日々の苦しみを理解しなければなりません。私たちはそれから逃れることはできないのです。私たちが暮らしている社会は、私たちめいめいによって理解されなければなりません…誰か哲学者とか、教師とか、グルによってではなくて…【人生をどう生きますか?セクション1第6章第4節】

所有物は、われわれがそれらを所有する以上にわれわれを所有してしまう。城、家、絵画、書物、知識―こうしたものが人間の存在よりもはるかに大きな重要性を帯びてくるのである。

善良であることと善良になることとは別々の事柄である。善性の開花とは善良になることではない。善良になるというのは、善良であることを否定することである。「よりよくなる」という考え方は、あるがままの姿を腐敗させてしまうのである。

信念からは決して真実は生まれない。信念は制約的条件づけの結果であり、恐怖の産物であり、あるいは人に慰藉を与える内部的、外部的な権威から生まれる。

意見というものはどれほどよいもので、筋道立っていても、それは真実ではない。意見は常にその当人の属している文化や受けた教育、知識によって偏り、色づけられている。

西洋社会は一定の宗教的シンボル、図像、儀式を信じ、また東洋の世界も似たり寄ったりのことをしていますが、しかしそういった全ての奥には同じ恐怖、快楽の追求、あるいは悲しみ、苦痛、出世欲、あれこれのものへの願望・欲望が渦巻いているのです。そういった全ては、全人類共通の運動なのです

宗教心とは、宗教を信ずる心とはまったく別物である。宗教心はいかなる恐怖も信念も存在しない心の状態であり、そこに存在するのはただあるがままのもの…実際にあるものだけである。

長い間反応し、何かを投影したり、防衛したり、あるいは主張したりするように条件付けられてきた脳細胞は、物事をありのままに見ることによってのみ静かになる。このような沈黙の中で、見る者、経験する者という中心が終焉した時にはじめて、混乱を生むことのない行為が生まれる。

私たちはこうありたいと思っている自分ではなく、あるがままの自分を知らなければいけません。こうありたいと思っている自分とは、単なる理想であり、架空の非現実なものなのです。変革することができるのは、あるがままのものだけであり、こうありたいと望んでいるものではないのです。

人はただひとりあらねばならない。しかしただひとりあることは孤立ではない。ただひとりあるとは、錯雑とした貪欲と憎悪と暴力の世界、痛苦に満ちた孤独と絶望から自由であることである。

われわれが沈黙に耳を傾けないのは、われわれの耳が精神のざわめきでいっぱいになっているからである。

支配と競争と戦争の文化を築き上げたのは思考に他ならないというのに、その同じ思考が秩序と平和を希求しているのである。しかしどうあがいても、思考は決して秩序と平和を見出すことはできないであろう。愛が姿を現すためには、思考が沈黙しなければならない。

あなたが知っているのはすでに終わったもの、完了したものである。あなたが知っているのは昨日だけであって、我々が問題にしているのは、あなたが知らないものからはじめて、そこから生きたらどうか、ということである。

意見を養い、それを鋭利で堅固なものにしていくことはできる。そしてわれわれのほとんどの行為はこの好悪原理に基づいている。経験と知識は堅固にされ、それは行為に現れる。けれども、そのような行為は人と人を互いに分かつものとなる。

私が無事でいたいと思ったり、銀行預金やいろいろな楽しみを持ちたいと望んでいる限り、また生理的、あるいは心理的に何かになりたいと思っている限り、必ず苦しみがあるのです。私が苦しみを避けるためにやっていること自体が、恐怖と苦痛を生み出すのです。

「こうあるべきだ」とされるもののこの模倣が、恐怖を育み、そして恐怖が創造的な思考を殺します。恐怖は精神と心を鈍らせ、私たちは人生の意味全体に対して鋭く目覚めていることができなくなります。私たちは自分自身の悲しみに対して、他の人たちの微笑や惨めさに対して鈍感になるのです。

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