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人は善であろうとして努力するが、その善の中にその対立物たる悪が存するのだ。断言的なことはすべてその対立物を有しており、何かを克服しようとする努力はそれが求めているものとは逆のものを強くさせてしまうのである。

無知は自己のありようについての理解の欠如です。そしてこの無知は表面的な活動や改善によって一掃することはできません。それはあらゆる関係における自己の働きと反応への不断の気づきによって一掃されるのです。

知識は常に不完全なもので、知識から生まれる思考はすべて限定され、部分的であり、決して自由ではないのです。従って思考の自由というものはありません。 【人生をどう生きますか?セクション1第3章第13節】

自分自身を知るには、人は動きの中にある自分、つまり関係に気づいてなければなりません。あなたは自分自身を孤立や引きこもりの中にではなく、関係の中に発見するのです。

瞑想とは精神を既知なるものから空しくすることである。既知なるものとは、すなわち過去である。空しくすることは蓄積の終わりに起こるのではなく、むしろ何ものも蓄積しないことを意味する。

リアリティは逃避の中でではなく、生きることの中でだけ理解されうるのです。人生の目的を追い求めるとき、あなたは実際は逃避しているのであって、あるがままの生を理解しているのではないのです。【人生をどう生きますか?セクション1第7章第5節・自我の終焉より】

信じやすい人々は、与えられるものの正邪善悪におかまいなく、常に進んで信じこみ、受け入れ、従おうとする。信ずる精神は探究心とは違っており、それは公式や原理原則の限界を出られない。それはちょうど柱につながれた動物のように、ロープの範囲でしか動きまわれないのである。

皆さんは、欲望がどんな混乱を世界に引き起こしてきたか見ようとしません。個人的安定、自分の達成、成功、権勢、地位、威信への願い。自分がすることすべてに全責任があるということを感じていないのです。

私たちが自分の生活を綿密に調査し、自他の関係を注意深く観察するなら、それらが他人に対して抵抗という壁を築く過程であり、私たちはその壁越しに他のものを見たり観察したりしていることに気づくのです。しかしながら私たちは常にこの壁を大切に守り、その背後に居座っているのです。

権威は、それが信念や伝統の権威であろうと、あるいは道徳と呼ばれている習慣によるものであろうと、どれも邪悪なのである。

自己を理解するというのは、一つの結論を得たり、目的地に達したりするようなものではありません。それは関係という鏡―「私」と財産や、物や、人間や、観念との関係を鏡にして、そこに映った「私」の姿を刻々に観察することに他ならないのです。

あなたが単純になればなるほど微細なものが偉大であることに気付く。

私たちの行為は観念によって形作られています。そして私たちの全見解は観念によって条件付けられています。したがって、観念が私たちの関係を形作るのです。その観念によって関係を形作ることは、関係の理解を妨げます。

私たちは方式や、方式に基づいた観念や価値観の変革によって、社会の改革を期待しています。そして実は「あなた」と「私」が社会を作っていることや、私たちの日頃の生活態度によって、混乱や秩序が生まれるのだということをわすれてしまっているのです。

信念からは決して真実は生まれない。信念は制約的条件づけの結果であり、恐怖の産物であり、あるいは人に慰藉を与える内部的、外部的な権威から生まれる。

善良であるというのは今現在におけることである。それに対して、善良になるというのは未来の事柄であって、それは信念、あるいは比較と時間の公式にとらわれた精神が考え出したものなのである。比較計量があるところでは真の善性は姿を消してしまうのである。

目覚めた精神、内から燃え上がる精神にとっては、どんな種類の働きかけも不必要である。

皆さんは、欲望がどんな混乱を世界に引き起こしてきたか見ようとしません。個人的安定、自分の達成、成功、権勢、地位、威信への願い。自分がすることすべてに全責任があるということを感じていないのです。

思考は時間です。思考は記憶、知識、経験であり、知識と経験が脳に記憶として貯えられているのです。そして、それは時間の結果です。知識の増殖、知識の広がり、知識の深さは時間のものです。

もし私たちが、けちで、嫉妬深く、虚栄心が強く、貪欲であれば、その通りのものを私たちの周囲に生みだし、それが私たちの住む社会になるのです。

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