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他人とは違った人間になり、もっと賢くなり、もっと明晰で利口になろうとすること―これが絶えず思考の追い求めているものなのである。それによって、あなたは深い安心感を見出そうとしているのではないだろうか

「私」と「他の人」との関係が社会を作っている以上、根本的に「私自身」を変えなければ、社会の本質的機能の変換もありえないのだ。

人生には簡単な答えはありません。人生に単純な答えを求める人は明らかに鈍重な精神、愚かな精神を持つ人です。人生に結論はありません。人生には明確なパターンはありません。生は生きて変化し、流動するものです。

社会は私たちの関係の産物であり、もし私たちが持つ関係が、混乱した、自己中心的な、狭い、限定された、国家的なものなら、私たちはそれを投影して、世界にカオスを持ち込んでしまうのです。【人生をどう生きますか?セクション1第1章第6節・自我の終焉第3章より】

皆さんは、絶対に、いかなる理想、概念、信念ももってはならないのです。なぜなら、これらはすべて人間を滅ぼしてきただけで、問題の解決にはならなかったからです。

問題は私たちが何を考えるかであって、他の人たちが私たちに考えてもらいたがっていることではありません。伝統に追随するとき、私たちはすぐに、「こうあるべし」ということのたんなるコピーになってしまいます。【人生をどう生きますか?セクション1第4章第7節】

善良であるというのは今現在におけることである。それに対して、善良になるというのは未来の事柄であって、それは信念、あるいは比較と時間の公式にとらわれた精神が考え出したものなのである。比較計量があるところでは真の善性は姿を消してしまうのである。

私たちの困難は、私たちが既知のものを持ちつつ未知のものを望むことです。私たちは既知のものを手放そうと望みません。なぜなら未知のものはあまりに恐ろしく、大きな不安定、不確かさがあるからです。そしてそれが、私たち自身を防護するために、信念で私たち自身を囲って守る理由です。

自己を理解するというのは、一つの結論を得たり、目的地に達したりするようなものではありません。それは関係という鏡―「私」と財産や、物や、人間や、観念との関係を鏡にして、そこに映った「私」の姿を刻々に観察することにほかならないのです。

本当は明日などというものはないのであって、明日とは思考が自分の浅薄な野心や満足を実現するために生み出したものなのである。思考は数多くの明日を生み出すが、本当は明日などない。明日に対して死ぬことは、今日を全的に生きることである。そうすればあなたの存在全体が変容をとげることであろう

個人的に、私生活、内面生活において、私たちは攻撃的で暴力的です。だから外部的にも、他の人々との関係においてもそうなのです。野心的で、貪欲、もの欲しげであるとき、私たちは外的、集合的にも攻撃的、暴力的で、破壊的になるのです。【人生をどう生きますか?セクション2第2章第9節】

この憎しみの世界は私たちの親の世代、先祖、そして私たちによって創り出されたものです。そういう訳で、無知が過去から果てしなく続いてきたのです。それは自然に生まれたのではありません。それは人間の無知の結果、歴史的なプロセスです。

生とは関係における運動であり、それゆえ、もしその関係が過去、記憶につながれ、縛られていれば、その運動は制限され、苦痛の種になる。

何かに興味があるとき、あなたはそれを即座にやってのけます。その時、即時の理解と変換が生まれるのです。あなたが今変わらなければ、将来も決して変わることはありません。この変換は即時に行われます。革命は今であって、明日ではありません。

我々は常に観念と行動を分離して考えるが、これは観念が常に過去のものであり、行動が常に現在のものであるからだ。つまり、生きることは常に現在であるからだ。我々は生きることに恐れを抱いており、それ故、観念としての過去は我々にとって重要なものになってくるのだ。

注意力とは明澄さであり、あらゆる思考をはさまない澄んだ直覚に他ならない。思考は常に死んだ過去に根ざしているから、決してそのような明澄さをもたらすことはできない。それゆえ思考は無明の闇の中の行為なのである。そしてこのことに気づくことが注意力の働きである。

もし私たちが、けちで、嫉妬深く、虚栄心が強く、貪欲であれば、その通りのものを私たちの周囲に生みだし、それが私たちの住む社会になるのです。

私たちはほとんど独立した思考や感情というものを持ちません。思考や感情が起きるとき、それらは単なる反応で、だからそれは既成のパターンから自由なものではないのです。反応…の中には自由などないからです。

自分自身を知るということは、行動している自分、つまり自己と他者の関係を知ることです。それが困難なのは、私たちがあまりに性急で忍耐がたらないからです。私たちは進歩を望み、目的に到達することを願うあまり、学び、観察している時間も余裕もないのです。

私たちが内的に依存しているとき、伝統は私たちに大きな支配力を及ぼします。そして伝統の線に沿って考える精神は、新しいものを発見できません。順応によって、私たちは凡庸な模倣者、冷酷な社会という機械の歯車となります。【人生をどう生きますか?セクション1第4章第7節】

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