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私たちが内的に依存しているとき、伝統は私たちに大きな支配力を及ぼします。そして伝統の線に沿って考える精神は、新しいものを発見できません。順応によって、私たちは凡庸な模倣者、冷酷な社会という機械の歯車となります。【人生をどう生きますか?セクション1第4章第7節】

知識は常に不完全なもので、知識から生まれる思考はすべて限定され、部分的であり、決して自由ではないのです。従って思考の自由というものはありません。 【人生をどう生きますか?セクション1第3章第13節】

精神をあらゆる条件づけから自由にするためには、思考抜きでその全体性を見なければならない。

人と音が別々でなく、音の一部であるときにはじめて、その美しさが感じられるのである。瞑想とはいかなる意志的行為または願望の働きをも交えることなく、あるいはまだ味わったことのない物事の快楽を求めたりすることなく、そのような分離に終止符を打つことである。

教育や社会は、我々を戦争に送り出し、我々にとってかけがえのない美や心の優しさ、喜びの気持ちといったものをことごとく破壊しているのである。

宗教的な生き方についてあれこれ思いめぐらすことでなく、快楽や不幸、あるいは人間を取り囲んでいるあらゆる条件を曇りなく見ることが、何よりも大切なのである。

思考は教会を建立し、救世主や導師を生み出してきた。思考は国家あるいは国民性といったものを考え出し、さらに国民を互いに反目し、対立しあう様々な集団や階級に分けてきた。思考は人と人を引き離し、孤立させ、そのようにして混乱と大きな悲しみをもたらしてきた。

あるがままの現実を快や苦痛を交えずにあなた自身の目でじかに見ることが必要である。自由とはそのようにひたすら見ることであり、そのように見ることが自由なのである。そして自由であってはじめて、あなたは曇りなく見ることができるのである。

あなたが食べている時は、ただ食べなさい。散歩に出かけている時は、ただ散歩しなさい。「私は何か他のことをしなければならない」と言わないように。その行為に完全な注意を払いなさい。

私たちの問題はどのようにして生と出会うかではなく、どうすれば心が、条件付けとドグマ、信念でいっぱいになったその心が、自らを自由にすることが出来るかということです。生と出会えるのは自由な心だけです。

私たちが自分自身の意識の性質を理解し、この果てしない知識、行動、区別等々のサイクルの中でどう作用しているかを見、そしてその意識が何千年もの間維持されてきた事を見、それが一種の偏見に他ならないという真理を見てそれと手を切るなら、私たちは古いものに新しい要素を与える事になるのです

我々が悟らねばならないのは、自分が環境によって条件づけられているだけではなく、我々が他でもないその環境だということ、自分がそれと分離したものではないということだ。我々の思考と反応は、我々がその一部であるところの社会が我々に強いた価値観によって、条件づけられているのだ。【人生をどう生きますか?セクション1第4章第6節】

数多くの断片をまとめて一個の全体にまとめあげることによっては英知は生まれない。

私たちはこうありたいと思っている自分ではなく、あるがままの自分を知らなければいけません。こうありたいと思っている自分とは、単なる理想であり、架空の非現実なものなのです。変革することができるのは、あるがままのものだけであり、こうありたいと望んでいるものではないのです。

あなたが今変わらなければ、将来も決して変わることはありません。というのは、明日起こる変化とは単なる修正に過ぎず、変換ではないからです。この変換は即時に行なわれます。革命は今であって、明日ではありません。

他人とは違った人間になり、もっと賢くなり、もっと明晰で利口になろうとすること―これが絶えず思考の追い求めているものなのである。それによって、あなたは深い安心感を見出そうとしているのではないだろうか

自分自身を知るには、人は動きの中にある自分、つまり関係に気づいてなければなりません。あなたは自分自身を孤立や引きこもりの中にではなく、関係の中に発見するのです。

私たちは私たちの中の空虚を知識で、儀式で、噂話で、会合で…無数のやり方の逃避で充たそうとする。

「私」と「他の人」との関係が社会を作っている以上、根本的に「私自身」を変えなければ、社会の本質的機能の変換もありえないのだ。

他人から自分を切り離して、自分だけの人生を送り、ひそかに快楽が続くように願っているかぎり、行き着くところは孤立の中の死なのだ。

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