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精神を、意見や、あれこれの他人に対する見方、印象、あるいは書物、観念といったもので充満させておいてよいものだろうか。なぜ精神を空しくしておかないのだろうか。精神があっけらかんとしていてはじめて、はっきりとものが見えるようになるのである。

意見というものはどれほどよいもので、筋道立っていても、それは真実ではない。意見は常にその当人の属している文化や受けた教育、知識によって偏り、色づけられている。

一つの思想に基づいたり、特定のパターンに盲従する革命は、革命などというものでは全くないのです。私たち個人の中に根本的革命を引き起こすためには、私たちと他のものとの関係の中で、私の思考や感情の動きの全体を理解しなければならないのです。

西洋社会は一定の宗教的シンボル、図像、儀式を信じ、また東洋の世界も似たり寄ったりのことをしていますが、しかしそういった全ての奥には同じ恐怖、快楽の追求、あるいは悲しみ、苦痛、出世欲、あれこれのものへの願望・欲望が渦巻いているのです。そういった全ては、全人類共通の運動なのです

どんな公式にもいかなる導師にも従うことなく、自分自身を理解することが肝要なのである。このたゆみない、選択をはさまぬ自覚によって、あらゆる虚妄と偽善に終止符が打たれるのである。

精神がいかなる解答も結論も求めず、抵抗も回避もせずに静止した時、その時にのみ新生が起こりうるのです。なぜならその時、精神は真理であるものを知ることが出来るからです。そしてあなたを解放するのはこの真理であって、自由になろうとするあなたの努力ではないのです。

人生には簡単な答えはありません。人生に単純な答えを求める人は明らかに鈍重な精神、愚かな精神を持つ人です。人生に結論はありません。人生には明確なパターンはありません。生は生きて変化し、流動するものです。

どんな公式にもいかなる導師にも従うことなく、自分自身を理解することが肝要なのである。このたゆみない、選択をはさまぬ自覚によって、あらゆる虚妄と偽善に終止符が打たれるのである。

根本的にまちがった社会に、正しい生活などありえません。現在世界中で何が起きていますか?それがどんなものであれ、私たちの生活が私たちを戦争へと、広く行き渡ったみじめさ、破壊へと追いやるのです。これは明白な事実です。何であれ私たちのすることが避けがたく対立を、腐敗を、無思慮と悲しみを生み出すのです。だから現代の社会は根本的にまちがっているのです。それはねたみ、憎悪、権力欲の上に建てられています。ちがいますか?【人生をどう生きますか?セクション3第1章第1節】

もしも私たちが内的にみじめで、混乱しており、カオス状態にあるなら、それが投影されて世界となり、社会となるのです。なぜなら、あなた自身と私自身との関係、私自身と他の人との関係が社会だからです。【人生をどう生きますか?セクション1第1章第6節・自我の終焉第3章より】

我々はあらゆるものから自分自身を分離させ、しかる後に、その孤立したところからあらゆるものに目や耳を向けるのである。そのような分離こそは、あらゆる葛藤や混乱の温床であり、それゆえきわめて破壊的なのである。

「こうあるべきだ」とされるもののこの模倣が、恐怖を育み、そして恐怖が創造的な思考を殺します。恐怖は精神と心を鈍らせ、私たちは人生の意味全体に対して鋭く目覚めていることができなくなります。私たちは自分自身の悲しみに対して、他の人たちの微笑や惨めさに対して鈍感になるのです。

心がまったく新しいものと出会うことができるのは、心が孤独で何ものにも影響されず訓練されず、様々な経験によって支えられていない場合に限られる。

思考は新しい事実を見出すことができない。新しい事実は後になってから思考によって言葉の上では理解されるが、その理解は思考にとって現実ではない。

あなたが単純になればなるほど微細なものが偉大であることに気付く。

無知は自己のありようについての理解の欠如です。そしてこの無知は表面的な活動や改善によって一掃することはできません。それはあらゆる関係における自己の働きと反応への不断の気づきによって一掃されるのです。

欲望は、思考がイメージを作り上げるときに起こるのです。それが欲望の源なのです。それ以前に欲望はないのです。

あなたは自分自身を知れば知るほど、はっきりと物事が見えるようになってきます。自己認識には終わりというものがなく、目的を達することも、結論に達することもないのです。それは果てしのない河のようなものです。それを学び、その中に深く突き進むにつれて、あなたは心の平安を見出してゆきます。

「こうあるべきだ」とされるもののこの模倣が、恐怖を育み、そして恐怖が創造的な思考を殺します。恐怖は精神と心を鈍らせ、私たちは人生の意味全体に対して鋭く目覚めていることができなくなります。私たちは自分自身の悲しみに対して、他の人たちの微笑や惨めさに対して鈍感になるのです。

日々の生活と瞑想、宗教生活と世俗の生活との間に区別はない。そのような区別は見る者が時間に縛られているときだけ生じる。そしてそのような区別の中に混乱や不幸が生まれる―それが我々の社会の実情なのである。

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