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目覚めた精神、内から燃え上がる精神にとっては、どんな種類の働きかけも不必要である。

何が真実かを問うかわりに、虚偽の中の見せかけの真実を否定し、虚偽として否定し去ること、これこそは思考から自由な精神のとる即時的な行為なのである。

自分を実現したいという欲望があるときにだけ、死への恐怖があるのです。なぜなら、自分を実現するには時間が、長寿が、継続がなければならないからです。しかし、もし瞬間ごとに自分を実現することができるなら、あなたは死を恐れないのです。

我々人間は皆、夢中になれる何らかの玩具を持っている。その玩具がある時は我々は平静でいられると考えている。だが、学問や文学その他の知的活動に専念する時には、その玩具はただ心を夢中にさせるだけであって、心を真に平静にすることはできない。

私たちは私たちの中の空虚を知識で、儀式で、噂話で、会合で…無数のやり方の逃避で充たそうとする。

我々が真に孤独になれるのは、問題に直面したら問題を明日にひきのばさないでその場でそれを解決する場合である。それ故、多くの人がいる家の中にあっても、バスに乗っていても、孤独になる事ができるのである。この孤独が常に新しい心、天真爛漫な心を示しているのだ。

瞑想は、あらゆる思考、あらゆる感情を自覚することであって、その善悪を断定しないでただ見守り、それと行動を共にすることである。

人はただひとりあらねばならない。しかしただひとりあることは孤立ではない。ただひとりあるとは、錯雑とした貪欲と憎悪と暴力の世界、痛苦に満ちた孤独と絶望から自由であることである。

私たちは私たちの中の空虚を知識で、儀式で、噂話で、会合で…無数のやり方の逃避で充たそうとする。

瞑想とは、何かをその一部だけでなく全体を完全な注意を払って見つめる心の状態である。

生きた心は静かな心であり、生きた心は中心も空間も時間も持たない心である。こうした心は無限の拡がりを有しており、それは唯一の真理、唯一の真実である。

人はどんな荷物もたずさえず、軽やかに、何の努力もせず、あるいはいかなる神殿や記念碑または社会的、宗教的な英雄にも気を取られることなく、ただひとり美と愛をたずさえて旅しなければならない。

思考は教会を建立し、救世主や導師を生み出してきた。思考は国家あるいは国民性といったものを考え出し、さらに国民を互いに反目し、対立しあう様々な集団や階級に分けてきた。思考は人と人を引き離し、孤立させ、そのようにして混乱と大きな悲しみをもたらしてきた。

すべての事柄を、言葉や理知の上ではなく、ありのままに観察することによって、心身は非常に鋭敏になる。

政治家や僧侶、偉人と呼ばれる人々は常に各人の公式に従って行動し、他人をその公式に従って生きるように強制しようとしている。そして思慮のない愚かな人々は常にかれらの言葉や約束、希望によってがんじがらめにされてしまうのである。

意見を養い、それを鋭利で堅固なものにしていくことはできる。そして我々のほとんどの行為はこの好悪原理に基づいている。経験と知識は堅固にされ、それは行為に現れる。けれども、そのような行為は人と人とを互いに分かつものとなる。意見や信念こそは、在るがままにものを見ることを妨げるのである

精神をあらゆる条件づけから自由にするためには、思考抜きでその全体性を見なければならない。

所有物は、われわれがそれらを所有する以上にわれわれを所有してしまう。城、家、絵画、書物、知識―こうしたものが人間の存在よりもはるかに大きな重要性を帯びてくるのである。

敵と味方はともに我々の思考と行動の産物です。私たちは敵の創出に責任があり、だから私たち自身の思考と行動に気づくことのほうが、敵や味方と関わるよりも重要なのです。というのも、正しい思考は分割を終わらせるからです。愛は敵と味方を超越します。【人生をどう生きますか?セクション2第2章第6節】

昨日、あるいは数多くの昨日からなる過去すなわち思考が、『私が前に感じたような幸福な状態にいつまでもいたい』と言うわけである。あなたは死んだ過去を現在によみがえらせ、それが明日なくなるのではないかと恐れているのである。こうして連続性の鎖が作りあげられる。

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