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瞑想は常に新たである。それは何の連続性も持たず、それゆえ過去は瞑想のうえに何の影も投じない。

特別な意見に捉えられた心、あるいは観念、信念、教条の網に掴まえられた心…そのような心には確かに再生はあり得ません。それは生を新たに見ることができません。それらのものが脇にやられ、心が自由であるときだけ、心は生を新たに見ることができるのです。

長い間反応し、何かを投影したり、防衛したり、あるいは主張したりするように条件付けられてきた脳細胞は、物事をありのままに見ることによってのみ静かになる。このような沈黙の中で、見る者、経験する者という中心が終焉した時にはじめて、混乱を生むことのない行為が生まれる。

執着のあるところに愛はなく、依存があるところには恐怖がある。

原則や理想を持たないで生きるということは、あるがままの現実と刻々に直面して生きることである。あるがままのものに実際に直面すること〜すなわち言葉や過去の連想や記憶を通さずに全的にそれに触れ、それにじかに接すること〜が正直ということである。

安定志向こそは実際には無秩序の原因なのである。自分のなかで増大しつつある無秩序や混乱を目のあたりにして、あなたはそれをすっかり終わらせようと考えるようになる。

あなたが単純になればなるほど微細なものが偉大であることに気付く。

西洋社会は一定の宗教的シンボル、図像、儀式を信じ、また東洋の世界も似たり寄ったりのことをしていますが、しかしそういった全ての奥には同じ恐怖、快楽の追求、あるいは悲しみ、苦痛、出世欲、あれこれのものへの願望・欲望が渦巻いているのです。そういった全ては、全人類共通の運動なのです

われわれの社会自体の道徳は実際には不道徳に他ならず、それゆえ社会も無秩序なのである。

あなたが何も知らない向こう岸、理知にたけた思考によっては補足できない別の次元から歩き始めてみたまえ。

もしも私たちが内的にみじめで、混乱しており、カオス状態にあるなら、それが投影されて世界となり、社会となるのです。なぜなら、あなた自身と私自身との関係、私自身と他の人との関係が社会だからです。【人生をどう生きますか?セクション1第1章第6節・自我の終焉第3章より】

理知はわれわれ人間の問題を何ひとつ解決することはないであろう

「私」と「他の人」との関係が社会を作っている以上、根本的に「私自身」を変えなければ、社会の本質的機能の変換もありえないのだ、ということです。

重要なのは人生のゴールが何かではありません。自分の混乱を、みじめさ、恐怖を、そして他のすべてを理解することです。私たちは混乱を理解せずに、ただそれを取り除きたいと思うのです。リアルなものはここにあるのであって、彼方にあるのではありません。【人生をどう生きますか?セクション1第7章第3節】

この憎しみの世界は私たちの親の世代、先祖、そして私たちによって創り出されたものです。そういう訳で、無知が過去から果てしなく続いてきたのです。それは自然に生まれたのではありません。それは人間の無知の結果、歴史的なプロセスです。

皆さんは、絶対に、いかなる理想、概念、信念ももってはならないのです。なぜなら、これらはすべて人間を滅ぼしてきただけで、問題の解決にはならなかったからです。

もしも君が、言葉や理知の上ではなく本当に思考の構築物をそっくり否定すれば、おそらく君は新たなるもの―新しい生き方、新しい見方、新しい行為―を発見するだろう。否定こそは最も積極的な行為なのである。

思考の役目は道理をわきまえること、明快、客観的、能率的、的確に考えること、です。そしてもしもあなたが自分の虚栄心や、自分の成功、自分の達成に縛られていれば、的確、明晰、能率的に考えることはできません。

愚にもつかない信念や区別に取り囲まれた今のような生き方のすべて、事務所や工場で費やされる生活の全くの無意味性を、あなたは正面から見据えなければならない。そのような生活の終わりに死が訪れる。あなたはこのような混乱のすべてを曇りなく見抜かなければならないのである。

私たちはほとんど独立した思考や感情というものをもちません。思考や感情が起きるとき、それらはたんなる反応で、だからそれは既成のパターンから自由なものではないのです。

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