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瞑想とは精神を既知なるものから空しくすることである。既知なるものとは、すなわち過去である。空しくすることは蓄積の終わりに起こるのではなく、むしろ何ものも蓄積しないことを意味する。

皆さんは、絶対に、いかなる理想、概念、信念ももってはならないのです。なぜなら、これらはすべて人間を滅ぼしてきただけで、問題の解決にはならなかったからです。

全的で、実り豊かな変革は、あなたや私が自分自身を一つの全的なプロセスとして理解するのでなければ、起こりえません。あなたや私は孤立した個人なのではなく、幻想や空想との、快楽や権力・名誉、安全などの追求、無知、葛藤、みじめさとの、人類の全苦闘の結果なのです。【人生をどう生きますか?セクション1第1章第7節】

私たちはほとんど独立した思考や感情というものを持ちません。思考や感情が起きるとき、それらは単なる反応で、だからそれは既成のパターンから自由なものではないのです。反応…の中には自由などないからです。

「真理」を求める人は、決してそれを発見することはできません。「真理」はあるがままのものにあるのです。

我々が真に孤独になれるのは、問題に直面したら問題を明日にひきのばさないでその場でそれを解決する場合である。それ故、多くの人がいる家の中にあっても、バスに乗っていても、孤独になる事ができるのである。この孤独が常に新しい心、天真爛漫な心を示しているのだ。

心がまったく新しいものと出会うことができるのは、心が孤独で何ものにも影響されず訓練されず、様々な経験によって支えられていない場合に限られる。

われわれはあらゆるものから自分自身を分離させ、しかる後に、その孤立したところからあらゆるものに目や耳を向けるのである。そのような分離こそは、あらゆる葛藤や混乱の温床であり、それゆえきわめて破壊的なのである。

精神や心情が、教育や、社会によって定められた豊かな感受性を否定するような規範へ順応することで鈍磨させられてしまったように、我々の肉体もまた鈍磨させられてしまったのである。

自分自身を知るということ―この大切なことを私たち人間は無視しがちです。自分自身を知ることこそ、何かを築きあげることができる唯一の土台なのです。

他人から自分を切り離して、自分だけの人生を送り、ひそかに快楽が続くように願っているかぎり、行き着くところは孤立の中の死なのだ。

瞑想とは、何かをその一部だけでなく全体を完全な注意を払って見つめる心の状態である。

安定はかえって秩序を危うくする。関係や信念や行為のどこにも安定などはない。そしてそのありもしないものを追い求めるがゆえに、われわれはかえって周囲に無秩序をもたらしてしまう。安定志向こそは実際には無秩序の原因なのである。

選択する人間は混乱しているのです。混乱しているからこそ、選択するのです。もしその人が混乱していなければ、選択する余地はない訳です。混乱している人だけが、なすべき事や、なしてはならない事を選択するのです。明晰で素朴な人間は選択しません。ただあるがままのものがそこにあるだけなのです

信念は恐怖や伝統から生まれる。二千年あるいは一万年にわたるプロパガンダこそは、儀式、教義、信念といったものに包まれた、宗教的な言葉の構造の正体である。そのとき言葉はきわめて重要になり、そうした言葉の反復が、信じやすい人々を催眠状態に陥らせるのである。

理知はわれわれ人間の問題を何ひとつ解決することはないであろう

人生には簡単な答えはありません。人生に単純な答えを求める人は明らかに鈍重な精神、愚かな精神を持つ人です。人生に結論はありません。人生には明確なパターンはありません。生は生きて変化し、流動するものです。

安定志向こそは実際には無秩序の原因なのである。自分のなかで増大しつつある無秩序や混乱を目のあたりにして、あなたはそれをすっかり終わらせようと考えるようになる。

快楽と真摯さを両方一度に求めるから絶望的になるのである。一方で真摯になろうとして、他方では世間的な快楽を求めようとしている。けれども世俗的な快楽は結局のところいかにも卑小なので、さらに加えていわゆる「神」という快楽を求めるようになるのである。

私たちの問題はどのようにして生と出会うかではなく、どうすれば心が、条件付けとドグマ、信念でいっぱいになったその心が、自らを自由にすることが出来るかということです。生と出会えるのは自由な心だけです。

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