新しいものを表示

なぜ私たちの人生はこうも空虚なのでしょう?私たちはなぜこんなにも寂しく、欲求不満なのでしょう?それは私たちが自分自身を深く見つめたことが一度もなく、自分を理解したことがないからです。【人生をどう生きますか?セクション1第7章第5節】

社会は「あなた」と「私」との関係が生み出したものなのです。つまり、社会は私たち自身の内部の心的状態を外部に投影したものに他ならないのです。ですから「あなた」と「私」がお互いに理解していなければ、単なる外部―内部の投影されたもの―の変換は全く無意味なのです。

権威は、それが信念や伝統の権威であろうと、あるいは道徳と呼ばれている習慣によるものであろうと、どれも邪悪なのである。

心が単純な時にだけ複雑なものが理解される。

支配と競争と戦争の文化を築き上げたのは思考に他ならないというのに、その同じ思考が秩序と平和を希求しているのである。しかしどうあがいても、思考は決して秩序と平和を見出すことはできないであろう。愛が姿を現すためには、思考が沈黙しなければならない。

あなたが単純になればなるほど微細なものが偉大であることに気付く。

目覚めた精神、内から燃え上がる精神にとっては、どんな種類の働きかけも不必要である。

意見を養い、それを鋭利で堅固なものにしていくことはできる。そしてわれわれのほとんどの行為はこの好悪原理に基づいている。経験と知識は堅固にされ、それは行為に現れる。けれども、そのような行為は人と人を互いに分かつものとなる。

どんな公式にもいかなる導師にも従うことなく、自分自身を理解することが肝要なのである。このたゆみない、選択をはさまぬ自覚によって、あらゆる虚妄と偽善に終止符が打たれるのである。

もしも君が、言葉や理知の上ではなく本当に思考の構築物をそっくり否定すれば、おそらく君は新たなるもの―新しい生き方、新しい見方、新しい行為―を発見するだろう。否定こそは最も積極的な行為なのである。

生はたえず動いている。生は、多くの複雑で素早く変化する問題を内包しながら、決して静止することがなく、毎日毎分、新鮮なアプローチを要求している。だから、私たちがこの生に出会うとき、そこには条件付けられ固定化された心と、たえず動いてやまない生との間の絶え間ない葛藤があるのだ。

信念からは決して真実は生まれない。信念は制約的条件づけの結果であり、恐怖の産物であり、あるいは人に慰藉を与える内部的、外部的な権威から生まれる。

心が単純な時にだけ複雑なものが理解される。

あなたは自分自身が暴力的でなく、毎日平和な生活、競争も野心も羨望もない生活、敵意を生み出すことのない生活を実際に送っていれば、世界に対して大きな影響を与えることができるのである。小さな火も集まれば巨大な炎となるのだ。

すべての事柄を、言葉や理知の上ではなく、ありのままに観察することによって、心身は非常に鋭敏になる。

悲しいことに人は空しさをおおうために所有へのいたずらな努力を重ねるのである。そのような努力から支配欲と自己主張が生まれ、それはさらに空虚な言葉と、過ぎ去って決して戻ることのない物事への様々な追憶を伴うのである。

何かに興味があるとき、あなたはそれを即座にやってのけます。その時、即時の理解と変換が生まれるのです。あなたが今変わらなければ、将来も決して変わることはありません。この変換は即時に行われます。革命は今であって、明日ではありません。

真理や真実を要求するとき、その要求は現在あるものに対する不満から生まれたものであり、従ってその要求は対立物を作り出すのである。

私たちはほとんど独立した思考や感情というものを持ちません。思考や感情が起きるとき、それらは単なる反応で、だからそれは既成のパターンから自由なものではないのです。反応…の中には自由などないからです。

人はどんな荷物もたずさえず、軽やかに、何の努力もせず、あるいはいかなる神殿や記念碑または社会的、宗教的な英雄にも気を取られることなく、ただひとり美と愛をたずさえて旅しなければならない。

古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。