宝塚版RRRについて 

宝塚界隈パワーハラスメント、いじめ、その後の宝塚の対応など、色々と思うところはあるけれども、宝塚オタクの友人がチケットを取ってくれたので同居人と一緒に見てきた。
3時間越えの映画を1時間半という尺に収めるためにかなりばっさばっさと要素を削り、まとめ上げているのは見ていてある意味清々しかった。橋の大炎上シーンを家屋の火事に変えたり、マッリの救出を最後に持っていったり、見ていて納得の再編成というか、ある意味映画よりも物語がわかりやすくなっていた。この"わかりやすさ"って観劇する上では魅力の一つで、ストレスの少ないものを見たい!という一定数の観客が持つであろう欲求にうまく応えているんだろうなと思った。このわかりやすさを他の作品でも保っているのならば、宝塚を好きな人が多いことにもある意味納得できる(わかりにくい作品でも良いだろう、とは思うけど)

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宝塚版RRRについて(文句がメインです) 

一方であちらこちらの演出に宝塚だからこその制限(私は英国人かつ知識層であるがためにジェニーが持つある種の傲慢さも含めて好きだったんだけど、宝塚版では薄れていた)(ラーマの父親の死に際に急に「シータを守れ」と男は男たるべき的な台詞が発せられる)なんだろうなぁというものがあり、結構ノイズだった。宝塚は演者を見せるために作品を作っているという話はなんとなく耳にしたことがあるので、物語の軸よりもそちらが優先されてしまったのだろうと思うシーンもあった(ジェニーに婚約者がいるのは、男役の出番を増やすためだろうし)。これらを全肯定する必要はないと思うけど宝塚オタクは仕方がない、と流すところなのかな。

ただ(友人がチケットをとってくれたところもあり、かなり甘めの見方になっていることは前提で)一箇所、どうしても納得しきれないのがラストの「読み書きを教えてくれ」というビームのセリフで。

宝塚版RRRについて(かなり文句) 

映画版でも発せられたこのセリフ、私は大好きで、そして「読み書きができるようになる」ことは世界を変えるレベルでの重いセリフだと思っているんですが。宝塚版ではラーマがいわゆる知識層に属する人であるということがあまり表現されていなかったので、ビームがそう発する理由づけが弱かったし、何よりもその前にビームが手紙を読むシーンがあったのが問題だと思っており。なんだよ!読めるんじゃん!と。
SNSの宝塚ファンが言うには「よく見たら、手紙を辿る指が途中で止まったりと、頑張って読んでいる(もしくは読めてない)ことが伝わってくるんですよ!」ということだったんですが、そんな細かい演技、あの大劇場で全員に伝えるには些細すぎるし、その些細さであのセリフを補完できると思うのはあまりにも好意的な解釈すぎる。私はそんな好意的には受け取れん。あんな大事なセリフに矛盾があるように感じさせる脚本、演出が客のこと、そしてRRRという映画のことを舐めきってるとしか感じなかった。

宝塚版RRRについて(かなり文句) 

お前、舐めてるだろ。「読み書き」のことを。読み書きができることで世界がどんなに広がるか、そして読み書きができないことでどれくらい選択肢が狭まるかを。このセリフをそのまま使うんだったら、もっときちんと脚本の中にその背景を織り込め。宝塚ファンだったらこれくらい見逃してくれるだろ、と思ってたのかもしれんが、最悪すぎるからな。
しかもその後に「淑女とのダンスを!」というビームのセリフもあり…。宝塚的にはダンスで物語をしめる必要があるのだろうなとは思うけど、ビームはそんなこと言わんやろ(宝塚版のビームは言うのかもしれんが)というのと、英国の支配への抵抗の物語であるのに英国のダンスで物語を終わらせようとするのはどうなのかな、という。憎むべきは植民地支配なのでその国の文化まで憎む必要はないかもしれないけども、違和感がある。
もうもう一回、みんなでナートゥダンスしたら良かったんじゃないかな。もしくは最初は英国式のダンスをしているけどジェニーが途中でナートゥダンスを始めて最後にもう一度みんなで踊り始めるとか。

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