成功したオタク1 

苦しみに満ちた映画だったが、希望についての映画でもあると思った。
「推し」が犯罪者だった。事件発覚後のファンを追うドキュメンタリーで、映画の主な部分は、オ・セヨン監督と、監督に応えたファンたちの語りによって構成されている。「苦しみに満ちた映画」とは、見終わってすぐの感想だが、不思議と重苦しい印象はなく、どこか明るくさわやかなものを受け取った気がした。それはこの映画が「語り直し」の映画であるからだと思う。
オ・セヨン監督は、最初「この人を推していたのは自分の恥だ」と言い、まだ擁護をしているファンに対して不可解な思いを抱いている。それがこの映画を撮ろうと思ったきっかけの一つだった。しかし、その後集めた自分の「推し」のグッズを処分するために整理している間に、捨てられないものがある、と気づく。そのことに気づいた時に、監督は自分と切り離して考えていた擁護派のファンたちと同じものが自分にもあるのではないかと考える。
映画はそれだけではもちろん終わらず、同様の状況にあるファンの言葉や、友人との会話、監督の母親(やはり推しが実は……という経験を持つ)への取材も含まれる。さらにはパク・クネ元大統領の支持団体への取材なんかもあったりする。そうした取材の過程を通じて描かれるのは、監督自身が変化していく様だ。

成功したオタク2 

人には揺らぎがある。一貫していたいと思っても、あるいは自分ではそう思っていても、人は簡単に矛盾するし、変わっていく。自分の魂が深く根を下ろした場所が実は恥にまみれていたと知った時、自分も無事ではいられない。あんなに素敵だと、自分をここではない別の世界に招き入れてくれた人だと思っていたのに、そうではなかった。じゃあ、あの素敵さは、あの世界は何だったんだろうか? 事件の直後、あるいはその後長く、ある人は推しの全否定や拒絶を、ある人は擁護をする。それは深く傷つき、その傷が傷のまま残されていることの現れでもある。
上述のグッズ処分のシーンは、監督一人ではなく、助監督(だったと思う。この辺の関係はうろ覚え。やはり推しが罪を犯していたという経験を持つ)とおしゃべりしながら進んで行く。憤りを口にしたり、それを手にした時のことを話しているうちに、だんだんとグッズ処分から思い出話やグッズ自慢に話題がずれていく。そこで監督は、はっと「これは捨てられない」と気づく。ここは大きな事件があるわけではなく、動きとしては低い机の前に座ってグッズを右から左へ運びつつおしゃべりをしているだけなのだが、このおしゃべりのグルーヴ感を含めて、とても劇的なシーンだったように思う。

成功したオタク3 

ここでやっぱり、自分の心のありかに気づいたのだ。そして、推しにまつわる全てを拒否することは、そうした自分の一部まで切り離してしまうことなのだと気づいたのだと思う。いや、もしかしてそれに薄々気づいていたけれど、意識に上っていなかったのかもしれない。ここで自分の心に向き合ったというか、ひょっこり角を曲がったところで、心に出会った。あ、傷ついてる。と、ひょっこり思った。
この部分に限らず、映画では、散歩しながら思い出話をしたり、一緒にヨーグルトマッコリを作ろうとして失敗したり、ものを食べたり飲んだり、「取材」と聞いて思い浮かぶ硬いイメージから外れたようなシーンが多く含まれる。でもそれだって語り直しだ。生活の多くは堅苦しい言語化だけでなく、ゆるくてしまりのない日常からできている。
会いに行くこと。取材して、話すこと。おしゃべりをしたり一緒に何か食べたりすること。この映画を作ること。映像を撮り、編集してナレーションを入れること。そうすることで、監督は自分に起こった出来事を語り直した。自分の抱えている傷ごと、もう一度自分の言葉で包みなおした。

成功したオタク4 

自分が「推し」の言葉や作品で救われたり楽しかったりしたことは消せない。推しの犯罪も消せない。傷ついていることもやっぱり消せない。拒絶するのではなく、見たくないものから目を逸らして辻褄を合わせようとするのでもなく、それについて語り、切り分け、会話し、おしゃべりをする。そうやって、昔の自分ごと、「推し」を通して感じたきらめきや希望ごと、「恥」だと思ったそのことごと、明日に自分を持っていく。
明日になったらまた変わるのかもしれない。切り離したり忘れたりすることがあるのかもしれない。また拾い直すかもしれないし、そのまま別の推しができたりするかもしれない。一つの結論よりも、区切りをつけながら生きていく、揺らぎそのものを映画の中に見た。そう思う。
こうやって同じ傷を抱えた人同士で言葉を交わし合うこと自体がセラピー的な面があるのではないかと思うが、取材と言ってもどちらかが一方的に話したり、「ドキュメンタリー」の型の中に並べてしまったりするのではなく、監督自身がこれらの言葉を受けて変わったり、行動したり、過去の自分(たち)のことを「こうだったんじゃないか」と話したり、それがまた新しい話題に繋がったりするのは、とても対話的な映画だと感じた。

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成功したオタク と少し外れるが 

監督を含め、取材対象の方々は皆言語化能力が高い。そういう人を選んだのもあるのだろうが、取材を受ける前、推しの犯罪の発覚後から、ずっとそのことを考え続けていたのだろうと思う。
「罪は罪だ」という共通理解があって、犯罪自体がうやむやにされかねない本邦の状況と引き比べると、この映画に救われていていいのかとも思ったりした。映画を通してしか知らないので表層だけを撫でているとは思うが、こういう「語り直し」自体がここでは難しいように感じる。この感想でも、映画の中の言葉達の奥にしっかりと感じた社会の存在感をうまく入れ込むことができなかった。
ジャニーズ性加害の事件や、松本人志氏の性加害報道等、日本では刑事事件に発展するようなことでも、社会と切り離して、その人の「もたらしてくれたもの」とか、それに対する肯定的な気持ちといった私的領域、あるいは「売れてる」みたいな経済的な面に焦点が当てられがちだ。社会が私的な関係に飲み込まれていて、まるでここには「すごい人」と「私」しかいないみたいだ。政治家のような深く社会に関わる職にある人物までもが、社会のありようから切り離され、「感謝」とか、亡くなった人は特にそうだが功罪の「功」だけとか、そんな閉じた場所からしか語られることがない。この状況はやはり奇異だ。

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