やっぱ趣味>現実 になることなんてないと思う 個人の姿勢としてはあるかもだけど、それをバッと掲げるのは冷たいな 寂しい
現実という前提が、生きて・作って・楽しむうちら全員が、もっと成熟して配慮が行き届くのであれば、“架空の話は架空の話”として殆ど説明なく楽しめるかもしれない でも泣いてる人いるから
人を疎外し得ることに対して説明を求めることを暴力と言い切るのは…誰かの喜びの芽を摘んでよしという意味になっちゃう
もちろん小規模にやってる個人に対して過剰に説明を求めることは暴力だったりするけど、企業の営利活動ならある程度は責任があるよね 影響力というものがあるので それは現実を形作るひとつの要素なので
眠れずに思っていたこと 吐き出しとく