胃腸が終わる前は君たちがどう生きるかの2回目を友人と見たんだけど、オモコロウォッチの感想回を見てから初めてもう一度見て、とはいえ私はジブリ論(駿論)として語るにはジブリのことを知らなすぎるので死と再生の話であるという最初の印象に加えて想像と創造の話であるという理解と解釈が自分の中で極まった。
1回目見たときちょっと理解できなかった(それはそれとして楽しんだからよかった)わらわらのくだり、あれ最初は普通に生まれる者とそれを喰う存在、命は簡単に生まれるものではない(だからこそ上に生まれたものは尊いのだ)的なことかと思ったけど、わらわらを形になったクリエイティビティであると考えたときに、多くのそれは形に出ないで死んでいくんだ…ととても苦しい思いになったしわらわらを喰うしかないペリカンは、クリエイティビティを喰って生きるしかない名もなき創作者の末路のようでもあった。塔の中に巣食って生活するインコたちは安定を持っているのに、ペリカンはそうではない。どこへ飛びあがったも結局そこへ行きついてしまうし。創造の火に焼かれたペリカンは惨めに死ぬけど、眞人はそのペリカンを埋葬する。そこには哀れみと同時に敬意があった。
インコ
塔で暮らすインコは安定はしているけどその暮らしはもう持たない。なぜなら塔が崩れるから。塔を自分で築くことのできないインコは創造性を持たずに、他者のそれに寄生する存在なのではと思った。オモコロの人たちはそれを(ジブリ論と読んだときに)スタジオジブリの社員であると解釈していたけど私は単純にオタクというものは皆インコなのではないかと思ったのだった。人の塔に住めず、外でわらわらを喰う者は創作者であり、インコはそれをしない(できない)。創作には大なり小なり人の「悪意」が織り交ぜられる、インコはその悪意によって肥大しながらも、悪意に無頓着である。自分が包丁を研いでいることに対しても特に何も思っている様子はない。自省的であるペリカンとは違い、ただすべてを寄こせと要求する強欲な存在である。インコ大王はその中で頭一つ抜けている存在で、しかし自分で塔を積み上げようとするけど結局はできない。癇癪を起す。インコ大王に出来ることはヒミを連れて石の悪意を打ち消すことだけで、それは他者の創作性に依存した行動に過ぎない。頭でっかちに育ったインコの末路。