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「理解する」の解釈の差異 

「理解する」の解釈の仕方が自分と相手とでかなり違った話、私は「相手の気持ちや考え知る上で、対話をしてそれを汲み取っていくこと」「相手をわかりたいし、自分のこともをわかってもほしい。共有していきたい」「全く正反対の意見だとしても、相手の意を汲むことでわかりあえることがあるかもしれないから頑張りたい」を「理解する」だと思ってたんだけど、友人は「色んな考え方の人がいるっていうベースがあって、それが自分とは違う意見でもそれはそれで受け入れればいいと思ってるので、そこに「いる」ということが理解出来ればそこに対話は必要ないのではないか。寧ろ対話することで衝突が生まれるならする意味ってあるのか。」というような存在の承認・認識することを「理解する」だと捉えていた。

最近「対話」という言葉を見る機会が多く(しかもあまり良い場面ではなく)余計に自分の考え方の暴力性みたいなものが客観視されて、私の「理解する」は自己満足の側面が強くて相手を傷つけることがあるということを忘れてはいけない…けど私は私の「理解する」を捨てきれない……という う〜ん。。。

「理解する」の解釈の差異 

ケースバイケースではある。
私自身全てを理解したいと思っているわけではなくて「そういう人もいるよな」で終わることも多い。私にとってそれは「理解する」では無いんだけど……
この友人と私は、アイドルという職業に根本の対する考え方が真反対で、その他の生活観とか感覚とかは似ているとこが多いのに、アイドルの話になると些細なことでも衝突することが辛かったんだよね。「お互い考え方が違うのはわかっているけど(相手の考える理解)お互いの考えを共有できたらこういう衝突の仕方すること無くならないかな?(私の考える理解と対話)」と言ったところ「考え方が違うのにわかり合う必要ってあるの?」ってシャットされてしまい……そうですね……になった

「理解する」の解釈の差異 

友人は「○○だね」と言ったことに対して私が「△△じゃない?」ということが全部否定にしか受け取れなかったらしい(私の話し方が悪いことにも問題があったので本当に気をつける……)私は私で相手を否定している意図はなくてあくまで自分の意見を述べてるだけのつもりだったんだけど、相手からしたら否定されてるとしか思えないから「じゃあ△△でいいですよ。すいませんね」みたいなニュアンスの返しをされるという悪循環がずっとあり、友達は自分が折れることで衝突をなくそうとしてくれていたみたいなんだけど(もう既にこの悪循環が衝突じゃね?て今書いてて思ったが)話をする中で、私に否定する意図が無かったことをわかってもらえたことも、自分の話し方が相手を否定するように感じさせてしまったことに気づけたことも、互いの「理解する」の認識に違いがあることも、話せて良かったなって思ったけど、これは自己満足に過ぎなくて相手にとってはこの工程全てが面倒で思想の押しつけで暴力だよーと言われたらそれもそうだねごめんね……だし、コミュニケーションをどうしていいかわからなくなってしまったよー

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