自分も心情的にはリベラルだし特に批判とかではないんだけど、リベラルとか反差別であろうとする人が英語の言説とか海外の言説や活動援用を頻繁にするの、めちゃくちゃ複雑な気持ち。G7意識したりとかニューヨークタイムズやBBCの報道でワーワー言ったり。AOCに憧れたりリナサワヤマに代弁もらうのも大切だけどさ。なんだろ。カタカナ語多いよね。日本のなかでもいるはずなのに。反差別に限ったことじゃないか。日本に住んでるのにめちゃくちゃ海外エンタメに詳しくて海外セレブの発言追ってて、色んな社会運動のジャーゴン紹介したり使いこなしてる人たち見てると、一見もっともな言ってるけど、それの理論が必要とされて生まれてきた土壌が置き去りにされてるような気がたまにして複雑なんだよな。アメリカ社会で生まれた議論をそのまま日本に当てはめてもピンと来ないことは多いしそれはそれで仕方ないと思うし、なんてゆうかそれはそれでいいって言うか、みんながめちゃくちゃ米国社会のニュアンスに詳しくなることで日本が変わるのかなぁ?変わるのかもしれないけど結局ずーっと「属国感」あるなって思いがヒシヒシとする。
@ichikawathrives 翻訳とか海外の持ち込むのがダメというわけじゃないな。
丁寧にそのコンセプトが生まれたバックグラウンド説明しつつ、そのコンセプトを自分の生活のなかに当てはめて抵抗の方法論としていくことはできると思うしそれが必要なんだと思うんだけどね。
多分Twitterだけ見ないで日本の人と会ったりもっと本読んだりした方がいいのかな…最近Twitterでの「対話」(未満)みたいなものですっかり疲れてしまったので愚痴でした…お目汚し失礼しました。
@ichikawathrives アメリカで生まれたコンセプトとがアメリカでしか通用しないとは思っていないし、「名づけ」の持つ力を自分は痛感してるから、もしそれが必要なら何でも利用しておくれよって感じで別に冷笑的になったり揶揄したいわけではないんだけど、やっぱりモヤモヤはするんすよ。
特に一番感じるのは人種がらみのトピックとかで日本にいる日本人はアジア人ではあるけど、アメリカで生きているアジア系アメリカ人とはまったく立場が違うやん?そーゆー背景の違い無視して文化の盗用とかホワイトウォッシングについてコメントしてくるアホは当然論外なんだけど「アジア人の役はアジア人が演じるべき」みたいなリベラル勢の解説も、んー、そーゆーことじゃないんだよなとか脱力することが多くて。それは言葉を尽くしても多分日本にいる人たちにとっては届かないだろうなと思うからもつわたしは最近やんないのね。疲れるし。日本にいるマイノリティが日本の実例を示してる例はいるし、そーゆー声を取り上げて、あくまで日本の活動として盛り上げるしかないと思ってて。アメリカで誰がどう言ったとかそーゆーのいくら忠実に迅速に訳してもね。