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国立近代美術館、大竹伸朗展。大竹伸朗の堆積する記憶の地層のなかに埋もれて息苦しくなる。近美の建物も乗っ取られていた。

今日の朝日新聞読書欄に、ローベルト・ゼーターラー『野原』の書評が。評者は金原ひとみ。いつも通りの、作品を読みたくなる評。

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twitter.com/lotzun_DeuPol/stat

「人文書院より、『ドイツ帝国の解体と「未完」の中東欧――第一次世界大戦後のオーバーシュレージエン/グルヌィシロンスク』を出版することになりました…」

ろーつんさんこと衣笠太朗氏の博士論文が、2月に公刊の運びとなったそうです。めでたい💐

 

某所からお年賀に頂いた錦松梅を、古今亭志ん朝師匠を偲びつつ食べた

ブログに、廣野由美子『小説読解入門』について読書メモを書いた

hondayonda.hatenablog.com/entr

第九のwo dein sanfter Flügel weilt、「穏やかな翼」などと訳されることが多いけれど、これはhypallage(代換法)や転移修飾と呼ばれるもので、本来動詞weiltにかかる副詞用法のsanft(「あなたの翼が穏やかにとどまるところで」)を付加語的形容詞としてFlügelにつけたものではないかな

赤染晶子『じゃむパンの日』(palmbooks、2022年12月)を少しずつ読んでいる。これは少しずつ読むのがよいタイプのエッセイ集だ。おもに2010年前後に京都新聞などに掲載されたもの。上手いようなたどたどしいような、リアルなようなウソ話のような、深遠なような取るに足りない話のような。とても個性的で不思議な味わい。

身体の動きにおいてクラシック・バレエは究極の美のひとつだと思うが、愛好し感動はするけれど耽溺はしない。でもその確固たるしつらえを突き抜けたダンサーにはビリビリくる。ぼくが観た中ではやはりシルヴィ・ギエムがそうだった。「あれどこがいいの」とセンセイには言われたけど。

60キロをクルマで往復して親に挨拶してきた。かつては子ども孫など十数人が大晦日から泊まりがけで新年を祝っていたが、親が衰え、かつコロナがやってきて、1日に顔を出すくらいになってしまった。
私の親のところで年末年始を過ごす習わしで、おせち料理も出てきたのを食べていただけだから、うちの家族のおせち、という定まったものがない。SNSでアップされる各家庭のおせちを眺めて楽しんでいる。

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武蔵野美術大学 美術館・図書館の公式ツイッターアカウントが紹介している、民俗資料室データベースの画像、山形県の藁細工のうさぎがよすぎる……(何しろうさぎ好きなもので)。
collections.musabi.ac.jp/searc

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そういえばウチの殿(永青文庫理事長)は子供の頃、正月の膳に鶴の吸い物があったと言っていた。絵に描いたような儀礼食なので、実際には食べられないものを載せた膳も多かったそうだ。

ヘッドホンの聴き初めは、アップル・ミュージックでファジル・サイのゴルトベルク変奏曲にした。

今年はさまざまな力が一気に失われてしまい、仕事が前ならできていたペースでまったくできなかった。

年齢のことももちろんあるだろうけれども、おそらくコロナ禍での授業を一昨年昨年と2年間やった結果として、とくに精神的に参ってしまったのだと思う。

ネット回線も授業する場所もPCなどの機器もすべて自腹で、学生ができるだけわかりやすいようにと無理していたら、貯金もなくなった。

どさくさに紛れていいように使われて捨てられたな、という気がして気持ちが沈む。
そんな風にしかなれなかった自分にも落胆するばかり。

来年は少しでも前向きになれるかな……。

今年なんとか生きのびた自分へのプレゼントとして

欲しかったAKGのヘッドホン

小説が文学が救いになる、ことはあるだろうけど、同じくらい人を殺す、殺してきたのではないかとも思う。すばらしい人物に接することで生きる希望を得る人もいれば絶望する人もいるだろう。美酒が生を焼き尽くす。ロマン派はわかっている。

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訃報が伝えられた磯崎新さんを最後に間近でお見かけしたのは、2016年の春日若宮おん祭、遷幸の儀・暁祭だった。極寒の深夜、若宮から御旅所へ、若宮神をお遷しする神職たちの行列の後尾に、共に供奉した。藤森照信さんがご一緒されていた。

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