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慢性的な首と腰の痛みがきているのですが、冗談でなく本当に運動とストレッチを生活習慣に含みこまないといけない。

『質的研究アプローチ』本を読みながら、実存主義のことを考えている。

同時並行的に本を読んで読みきらん。

"Magnetoは入力信号を予測不可能なサウンドに変化させ、音の世界を異次元の空間へ導いてくれます。複雑なハーモニック・レイヤーや生み出される複雑なリズムが、ステレオ・イメージの中に繰り広げられ…"

magnetoよりもblue skyの方が爽やかそう。

郵便本をばーっと読み直して、最後の転移論のところはむしろ質的研究論に使えるだろうなというのが収穫かもしれない。

自分にとって背表紙というのが極めて重要なものなのだと最近理解した。

古着屋とレコードショップへの苦手意識というのは、明らかにあの収容スペースにある。横向きに薄く圧縮された品を取り出してこなければならない、あの非一望的空間構成への苛立ちが強い。すべて前を向いていればいいのにと思う(逆に言えば、そのような引き出して、広げること、展開することの快もあるのだとは思う)。

ル=グウィンの『文体の舵を取れ』WSを最近やっている。クリエイティヴライティングなどだと変に何か開示請求を受けるような雰囲気がありそうで(という偏見から)敬遠していたが、ワークとして淡々としているところがいい。

ceroの新譜を良い音で聴く余裕が欲しい。

技術と美学をやっていきてえよなと『音楽とテクノロジーをいかに語るか?』をパラ読みしつつ思うのだけれど、やっぱ電気楽器についている「アナログ」への関心があるなあという気持ちにもなった。

『思想』の田辺元特集を読んでいる。しばしばデリダは田辺と比較されることがある。それは当然彼らのヘーゲル主義的な記述によるからだろうし、喪の問題と懺悔との相性もよかったのだろう。ただデリダはルソーを道徳ではなく、感性論的に読むべきだという趣旨のことを書いている。その意味で、死の哲学からではなく、むしろ個と類を媒介する時空間論としての世界図式をアップデートする方向から読む態度をこそ読んでいく、そういう筋があるという方向の面白さ。こっちは数理論、技術論の方向でも生きており、戸坂、三木と同様に読んでおいて然るべきだと感じる。セカイ系批判を共同体回帰というよりは技術論でいく筋。

「汁に浸されたパン」というのは食の三角形でいえば当然火にかけられたものであるが、この炭水化物を汁で「戻す」、いや、乾物の戻しともパスタを茹でるとも違う、この「浸す」という工程、「火にかけられた」におさまらない過剰にぬるそうな印象がやはり気に掛かる。

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