なので、医師との問診の結果「検査すればグレーゾーンかドンピシャのASDか確定できるね」と言われた当事者の思うところを書いてみる。
なお「確定診断したところでできることは特に無いし色眼鏡で見られるリスクだけ増えるから大卒の学歴あって就労ができているあなたは診断しないほうが得策」という医師のアドバイスに従って確定診断も通院もしていません。
まず「ピカソやエジソン、坂本龍馬も発達障害だった!」これ一番「だから何?」ってなりますね。
画才も理系の才能も裕福な実家も無い当事者にとっては何の救いにもなりません。
むしろ「あ、それくらいの偉業を成さないとダメってことね」と諦めが先に立ちます。
この手の発言をされる時は大抵やらかした時か自分のやらかしが話題になった時なので。
それなら「色眼鏡で見られるから隠しといたほうがいいよ」と言ってくれた医師のほうが誠実さでは勝ります。
さらに言えば、この例に出される偉人は「今の基準で認められている人」ばかりですね。
40人に1〜3人くらいは発達障害の傾向がある、と言われているわけですから当然「とんでもない人」や「悪行を成した人」が発達障害者である可能性や発達特性がマイナスに働いた可能性もあるのに、それは都合よくいないことにされているんですね。
偽善ですね。

実際「あれ? この人、発達障害では?」と思う歴史上の人物(悪行の方で)がいるんですが、その人について発達障害の可能性を指摘する文献を見たことが無いです。
エジソンやピカソや坂本龍馬は些細なエピソードまで「これは発達特性がプラスに働いた例です!」と喧伝されるのに「素人向けに書かれた本にも載っている典型症例から教員や支援職向けの専門書くらいにしか記述無い症例までコンプリートしていますが……」というこの人に対しては全く発達障害の可能性が指摘されていません。
逆に「コイツはこんなダメ人間www」と障害特性と思しき点がネタ化されるのを見ることが多く「あ、手柄を立てない発達障害者ってこう扱われるんだ」と自分のようなクロゼット当事者の立ち位置をよーく教えてくれます。
皆に納得してもらえる手柄を立ててからカミングアウトしたほうが良さそうですし、クローゼットにするにしても悪目立ちしない程度の能力が無いとネタ扱いされますね。
気をつけるしかなさそうです。
指摘しないのは現在生きている当事者を差別から守るため?
なら、成功例についても言わないでください。
我々は、大半は凡人に生まれ凡人で終わるのですから。
「都合よく障害名を利用するな」はプラスマイナスどちらにも言えることです。

私は当事者ではあるけれど「定型たちに自分たち発達障害者を分かってほしい」とはあまり思いません。
もちろん、早期発見や早期療育、学校現場や就労における合理的配慮や環境調整は実践されるべきです。
しかし、それは制度や公的支援の話であって個人間の思いやりによるべきではありません。
定型発達者の多くは発達障害者が思うより優しく、忍耐強く、驚くほどの試行錯誤を通して発達障害者とコミュニケーションをとっているのです。
悲しいかな、私を含めた発達障害者の多くがそれに気づけないのです。
こう思うようになったのは発達障害者の家族会に参加したことがきっかけです。
参加者の多くは発達障害者をパートナーに持つ女性でしたが、男性や職場の同僚が発達障害者だという人もいました。
そこで語れる話は当事者にとっては耳の痛い話も多くありましたが、それ以上に「こんなに配慮していたんだ」という驚きが大きかったです。
発達障害者のために細かく説明し、家事の手順や方法を協力しやすいように工夫し、報連相を徹底するためにアプリや連絡帳を駆使し……と定型同士であればいらなかった手間やお金をかけて当事者に関わる定型たちの姿に我が身を顧みて恥ずかしくなりました。

「定型たちは分からないところで急に怒り出す」は発達障害者がよく言う言葉ですが、定型たちは「急に怒り出す」のではなく「必死にコミュニケーションを取ろうと重ねた工夫を無かったことにされ否定され積み上げたものを壊された時に怒る」んです。
特性ゆえに過程を見落としがちな発達障害者にとっては「急に」でも、定型発達者にとっては「積み重ねた果てに」なのです。
もっと言えば「怒るほど関わってくれた人」でもあるんです。
大抵の提携発達者は発達障害者と過ごすことがストレスです。
脳の構造から違うのですから、それは仕方ないことであり、どちらも間違っていません。
ですが、ストレスになる人間から離れたいと思うこともまた仕方ないことです。
心底、発達障害者を嫌う人は静かに去って行きます。
静かに去るだけならまだしも陰口を叩くことや、発達障害者がやった失敗を面白おかしく尾鰭を付けて言いふらします。
「怒らない人だから優しい」のではなく「嫌っているから関わりたくないと思われた」んです。
そんなことも我々発達当事者は見落としがちです。
身近にいて怒ってくれる人からこそ学ばなければならない、ということも私は知りませんでした。
家族会で周囲の声を聞くことでやっと気づけました。

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以上のことは個人的な感想です。
SNSで「定型発達者は何でも楽チンなんだろ?!」と敵愾心を持つ発達当事者や自身の失敗や無礼を棚に上げる発達当事者が目につくので書いてみました。
発達当事者同士で繋がることの気楽さや心強さには自分も一時期とても救われたので分かりますが、今の私はあまりそうでないです。
また、障害特性と人格を切り分けることにも疑問を抱いています。
自分自身、どこまでが特性でどこまでが人格なのか判然としない上に何らか問題が生じた際には、それはどうでもいいことだからです。
私が に望むことは早期発見や早期療育が制度化され、子どものうちに適切な医療に繋がれること、職場等での合理的配慮が制度化されること、ただそれだけです。
発達障害を個人間の思いやりや工夫でどうにかなるものと矮小化することも、異才の証と都合よく解釈することも、当事者とその周囲には役に立ちません。
発達障害は障害です。
個人の力ではどうにもならず、当事者や周囲の負担にもなり、ダメ人間にしか見えない言動も多々あります。
それを受け入れて愛してくれとは言いませんし、言えません。
愛ではどうにもならないから障害なんです。
ただ、存在を前提として制度を組んでください。

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