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本屋さんに行ったら、ひろゆきの本のすぐそばに「なぜ私たちはあの人の「論破」にだまされるのか」と帯に書かれた『ストーリーが世界を滅ぼす』(原題は“The Story Paradox”)を置いているのを見つけてしまい、思わずわるい笑顔が出た

この国は原発事故であんなことあったのに、いまだに「事実は国が決める」なのですよ。そこがもうとことん終わってんな、って話で。

明日でホテル療養1週間が経過し、無事退出になるわけだが、妻から「うつされたら死ぬ。PCRで陰性出るまで家に帰ってくるな」と言われている。どうしたらいいですかとホテルの看護師さんに問い合わせたところ「7日で退所と厚労省が決めている」「厚労省が」「厚労省でそう決まってる」と繰り返すばかりで、なんつうか、その。この国と、この国の人たち、みな事実自体を「国に決めてもらう」癖が強すぎやしない? 「ああ、それは国のルールっすよね。7日経ってれば感染のリスクとか確率ってどんなもんなんすか」と聞くけれど「国は7日で隔離はストップだと決めてます」と質問とは全然違う答え出すボットになってて。「でも、そんなの国が決めたからそうですって戦時中と同じじゃないっすか」と言ったら「そうですね」。

もうダメだこの国。

bucchinews.com/society/7040.ht

ほんこれ…なんだけど、こういうことすらTwitterじゃもう怖くて言及できないよなぁ。袋叩きどころか下手するとリアル嫌がらせすらされかねん。
山本先生すげーな(大御所だからというのもあるかもだけど)

後半もめっちゃ面白い。
重信房子のくだりとか。
bucchinews.com/society/7041.ht

「「伝えた」と「伝わった」は別のこと」というのは知っていたっつーか子どもに「それやるな」と100回言っても同じことをやりやがる時点で常に課題であり続けているのだけれど、今年のはじめに某団体から届いたメールにさらっと「当団体は50年を迎えました。◯◯という市民運動50年からつくづく学んだことは「伝えた」=「伝わった」ではないということです」と書いてあって、なんかもう、真顔になっちゃったんですよね。ああ、これはもう本腰を入れて「伝えること」について学ばないとまずいんじゃねーのって

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クッ・・・!
納まれ!早く納まってくれ!おれの仕事!

首藤脚本ぽい「昼だけどコンパンワ」なるフレーズに、ナレーション石塚運昇さんのライブラリ出演。

良かったです。

youtu.be/DAz6XNqbKG8

話し、恋し、遊ぶ「人間」が今、ものすごいスピードで消え去っている。近代的な価値観からいけば、それは「会話」じゃないし、それは「恋愛」じゃないし、それは「遊び」じゃない。究極の他律産業社会の到来。でも、「人間」は近代の主に西欧中心に発展したとされる独自の人間観なのであって、「人間」に包摂されないのが人間なのだから、怖がる必要はないのかもしれない。しかし我々はその推移、あわいにい生きていて「今、どっちの基準で生きればいいのかわからない」という葛藤がある。「人間」を演じろというプレッシャーがありつつ、でも現実にはもう「人間」するなんて古いし無理だとわかってる。

以下のキャンペーンに賛同をお願いします!「サッカー選手:アミール・ナスル・アザダニ選手の死刑執行を中止せよ
@FIFAcom @FIFAWorldCup @afa @antonioguterres」 chng.it/B8bhMBYV @change_jpより

(以前Twitterで投稿した文章の転載です)

ところで皆さん、

南野森監修『10歳から読める・わかる いちばんやさしい 日本国憲法』(東京書店)

は、良い本です。原文・口語訳・解説の構成で、例えば第99条は「(略)とにかくすべての公務員は、この憲法を大切にして、大事に守らないとダメだよ」と、あらわかりやすい!

hanmoto.com/bd/isbn/9784885740

仕事ばっかして酒飲んでるとバカになるからみんなキオツケヨウナ(手遅れ)。

いったいこの日本語の何をどう読めば、敵基地攻撃能力なるものが武力・戦力ではないと言えるのか、私にはさっぱりわからない。

surfaceみたいな仕様の、MacBookにも iPadにもなる製品出ないかしら。

> 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
(日本国憲法より)

aozora.gr.jp/cards/001528/card

母方の祖母に、東京大空襲の話を聞いたことがある。母の弟(私の叔父)はその時まだ乳飲み子で、叔父を背負った祖母、母、母の妹(私の叔母)で、焼夷弾の雨霰を逃げ惑ったとのことだった。
四人の目の前で、焼夷弾が爆発した。
母も叔母も祖母も吹っ飛ばされたが、三人ともたいした怪我はなかった。
ところが、祖母が背負っていたはずの乳飲み子の姿が見当たらない。
祖母は、叔父の名前を叫びながら辺りを見回し、すぐにその姿を認めた。ぐったりとし、口の周りに赤黒い血がこびりついているように見えたそうだ。
なお、叔父はまだ存命である。実は、口の周りの血のようなものは泥に炎が反射したもので、乳飲み子の叔父は、かすり傷一つ負っていなかったらしい。
「おばあちゃんは、そのときどんなことを思ったの?」
この話を聞いた際、まだ小学生だった私は、そう尋ねた。
「何も思わなかったよ。ただ『息子は死んだ』とわかっただけ。悲しいとか思う余裕もなかった」
祖母は、そう言っていた。
最愛の息子の死をすら、悲しむことを不可能にするのが戦争なのだ。それは、人間から人間を奪うことに等しい。

日本が戦争に向けて、また一歩、歩みを進めた日に。

まだ子どもが小さかったころ、家族で近所の公園に遊びに行き、そこで子どもを遊ばせながら、わーーー…ん…と地鳴りのように響く子どもたちの歓声に聴き入る時間をとても愛していた。公園でそうした時間を過ごすたびに、この歓声を守るために、私たち大人は存在しているのだ、という思いを強くした。
今の日本が進む方向は、絶望的なほどに、そうした豊かな時間の正反対であるように思えてならない。おそらく、杞憂ではない。

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