「自分の心配してくれる人なんてこの世にいないんだ」という信念が強すぎて、大事にされた記憶と放っておかれた記憶があったときに、後者ばかり憶えてたり思い出したりしてたんだなと最近は思うようになった。

両方のできごとが事実であっても、自分の信念に沿うエピソードばかりピックアップしてしまうことで信念が強化されて、自己否定感が強まる負のスパイラル

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(自己肯定感が底の人の周りにモラハラ的な人が集まってくる傾向もあるかもしれないけど、ここの話は自己認識についての話。)

わたしの場合は「大事にしない」という信念を体現してるのは自分自身で、長いことセルフネグレクト傾向にあって、他人にばれなければどんなに生活が悲惨でも休まなくても平気だと思っていた。
自分の世話をしないで、ただ嵐が過ぎ去るのを待つみたいな対処?しかできなくて、でもやっぱりそれだと続かないんだね、人生

20代の終わりくらいに「『自分は価値がない人間だ』という信念が他人を遠ざけて、結局その信念どおりの現実をつくりだしてるのは自分自身なんだろうなー」と気づいてたけど、「現実を作りだしてる」メカニズムはよく分かってなかった。
けど、最近はちょっと分かるようになった。

「自分が大事にされるに足る人間じゃない」という「客観的事実」が存在すると思いこんでいる人間にとって、「自分を大事にする」というのは、だいぶいくつも山を越えていかなきゃいけない境地だよ

結構前は、歯磨きもできず布団にも入れず床で寝起きして、虫歯ができてものが噛めなくなっても放置しつづけるような生活だったけど、今はマシになったなーという感慨

自分が今生き延びてるのはだいぶ幸運によるところが大きく、特別努力してきた意識もなければ「自分はできたのだから」と誰かに言うつもりもない。

自分に恵まれていた面があったと認めることは、自分の苦労を否定することではないので、世の中で一番恵まれてるわけでも不幸なわけでもなく、ただそれが人生だったんだなと

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