反差別って、「反差別」という分かりきったことをみんなで守ろうではなく、これまで当たり前とされてきたものを変えていこうという運動だと思ってる。
自分たちのコミュニティのなかの話なんだから、当然反差別を訴える人自身も、自分を疑って、変えていかなきゃいけない。
それができない人は、どこかの時点で変わることを拒み、既存の規範を自明視し「でもこれは仕方ない」とか「これは差別じゃない」とか言い始める。
ただ、Aという差別とBという差別があり、AはダメだけどBはOKだと言ってしまうと、ABの複合差別を受けている人は取り残されてしまう。
差別は理想ではなく、生きた人間の話。だからAもBもCもDも全部の被差別当事者だという人は、現実に存在する。
だから「すべての差別に反対」する必要があるし、それを実践するために、自分たちの意識やアクションを見直し続けることに終わりはない。
内省なき反差別は意味がないと思う
「反差別」はanti-discriminationの訳だけど、わたしの認識としては、差別というものは全容が容易には特定できないほど根深いので「脱」と軽々しくつけることはできず、しかし今日生き延びるために抵抗の運動も必要なので「反」なのだと思っている。
そうすると、ヴィーガニズムの訳語としてあてられることがある「脱搾取」というのは適切なのか?という疑問も浮かぶけど