言葉のあやだったとしても、AROやACEのあり方を「引き算」と表現するのは、当事者としては微妙に感じる。>BT

Aロマンティック・Aセクシュアルスペクトラム上にいる人たちは、あるべきものが「ない」と理解されることが多いけど、むしろわたしたちの視座からすれば、恋愛や性愛がなくても人生は「完全」なので。

Alloロマ・Alloセク(AROACE以外の「ふつう」に恋愛やセックスをする人たち)の世界は、むしろ余計な「+α」を求めてるように見える。

AROACEの観点から解体すべきものとして真っ先に異性愛規範が挙がるのは完全に同意だけど、同時にセクシュアルマイノリティであっても、Alloロマ・Alloセク(ゲイ・レズビアン・バイセクシュアル・パンセクシュアル)の人たちはAROやACEに比べてマジョリティであることは忘れないでほしい。

「LOVE IS LOVE」というスローガンに、恋愛や性愛を前提としない「愛」は含まれているか。
クィアコミュニティのなかでさえも、恋愛やセックスが自明視される風潮があるために疎外感を感じるAROやACEは多い。

「恋愛/セックス/結婚/生殖/家族」はすべてセットで、相手が「ひとりの異性」に集約される考え方は、本来人同士が持つ関係性を大幅に狭める窮屈なものだと思う。

まとめてセット売りしかしませんというのはおかしな話で、一部は必要ないという人がいても、あるいは複数人と関係性を結びたいという人がいても(ポリアモリー)、生きた人間同士の関係性なのでありえる話でしょう。

加えてわたしは「恋愛や性愛のパートナーが、友人や他の人間関係よりも優先順位が高くて当たり前」という恋愛伴侶規範に抗いたいという気持ちもこめて、AロマンティックAセクシュアルを名乗っている。

そうしたたったひとりのパートナー・血縁のある家族をもたない人生は、日本では「詰み」になる可能性が高い。とくに、経済的に自立して生きることを想定されていないジェンダーの人たちの場合。
でも人生の苦しみやよろこびを分かち合う相手が、恋愛性愛のパートナー・血縁者に限定されることに合理性はあるのか?

恋愛やセックスの相手でなくても、血のつながりがなくても、誰かとともに生きていける可能性を求めて、わたしはAセクシュアリティを生きている

周司あきらさん、「AロマンティックやAセクシュアルという『引き算を行う』とLGB表記ができなくなる」とか、スプリット・アトラクション・モデル※に対して否定的なことを言っていて、非常にモヤついた。

それに対して違うんじゃないのって言う人もほとんど見かけなかったのが余計、今でもお名前見かけるたびモヤモヤした気持ちになる。

mstdn.jp/@Akira_Shuji/11120058

「引き算」をして遊ぶ思考実験の道具ではなく、「Aロマンティック」も「Aセクシュアル」もそれぞれを分けて考える考え方も、それがあることでより本来の生き方ができるという人たちがいるんです。
必要ないならないでべつに使わなくていいんですよ。

それを持ち込んだらクィアコミュニティは崩壊してしまうとでも思ってる?

acearobu.com/split-attraction- [参照]

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上のツリーで、「AロマンティックAセクシュアル」という主語で話してしまっているのだけど、AロマAセクでも誰かとパートナーシップをもったり、結婚・育児を望んだりする人、実際に実践している人はいます。

AロマンティックAセクシュアルスペクトラムの生き方は一様ではない。

ただ、恋愛・結婚(ほとんどの場合異性愛・異性婚)が当然視・自明視される「恋愛伴侶規範(アマトノーマティヴィティ)」が、AロマンティックAセクシュアル・スペクトラムのコミュニティにとって大きなテーマ、かつ抵抗すべき規範であることは間違いない。
そしてこの規範が、当事者以外の人々の生き方を縛り、狭めていることも

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