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まだあと2日も出勤しなきゃなのが本当に嫌だわよ…休みてぇよぉ…

インストバンドのライブで観客からシンガロングが起きてるの、何度見ても笑ってしまうわ。ノリがよすぎる😂

今日は今年最後の陶芸教室へ。いつもと違う時間帯へ参加してみてあまりの賑やかさに驚いた。話しすぎ、笑いすぎで全く手が進まないのも問題ではある🤭しかも今は絵付をしている所なので、吹く度に呉須がはみ出る😅やりなおしがきかないのに…

日本のお家芸“調停的仲裁”では、物事の白黒ははっきりさせない、どちらが正しいかを明らかにすることはない、ただその場を丸くおさめる事だけを目的とする等々。つまり日本で仲裁しているつもりの人は、ただその場をとりなしているだけであり、本来の意味である裁きを下す役割は果たしていないという事。その通りであるし、今も日常で度々目にする光景。

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文中に参考例として出されているのは江戸幕末から明治初期の歌舞伎狂言『三人吉三廓初買』の中の「庚申塚の場」。少なくとも私が生きている間にこれらの意識が変わるとは到底思えない…

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『日本人の法意識』川島武宣で、わが国の日常用語では、「調停」と「仲裁」という二つのことばの間には明確な区別がない(p155)とのべられている。1967年から今まで、そういう所は何も変わっていないのだな。

martha さんがブースト

むかし飲み会で「従軍慰安婦は捏造」って熱弁するネトウヨに反論してたら「まあまあ、実際その場にいたわけじゃない俺らには何がほんまか分からんよな」って仲裁しにきた人いたの、事あるごとに思い出すんよね。
あんた織田信長のことも豊臣秀吉のことも「実際見てないから実在したかどうか分からん」つってんの?違うやろ。

デマと反論をどっちもどっち扱いして「仲裁」しに来るの、「いじめられる側にも問題がある」理論でしかなくて最低やけど、この人は周りに「バランスの取れた良識ある人」扱いされてたし、自分でもそのつもりやからしたり顔で「仲裁」しに来ていいことしたつもりでおるんよな。私的にはネトウヨの人以上に思い出しムカつき度高いんやけど。

夕飯はプチトマトとみかんとカマンベールチーズのサラダと豚汁と赤ワイン。豚汁と赤は意外と合う。

昨日久しぶりにタワーレコードへ行った。目当のCDがメタルのゾーンに無かった為Classicゾーンにいた店員さんにpolyphiaのCDはあるか訊ねたところ、確かこの辺に〜と呟きながら即座に売場に移動された。さすがに驚いた。しかも新譜の入荷は海外からなのでまだだという情報まで調べてもいないのにスラスラと。ここまでものの1分もかかっていなかったと思う。プロフェッショナルとはこういうことかと久しぶりに感動した。有難い。

martha さんがブースト

「音楽なんてそれでいいんだ。日常にふと流れてきて、"いいな"とか"楽しいな"とか、そんな気持ちを聴く人に起こして、それで消えていくもの。人生を変えたり勇気を与えたり、そんな力は持っていない。日常の中にある、流れてくる、耳を傾けたり傾けなかったり、そこにいる人たちが時に応じて自分の気持ちを乗せたり乗せなかったり、ただそれだけのもの。感動を与えようなんて送り手が考えたら死ぬもの。人の心を操りたいの?そんな傲慢な話はないよ」師匠はそんな話をする。
だから師匠の演奏会は少し変わっている。外の音を遮断しない。通り過ぎる車の音、遊んでいる子どもたちの声、遠くで犬が吠える声、そんな日常の音が演奏会の途中にも入り込んでくる。「だって音楽ってそういうものでしょ。日常の中で聞こえてくるでしょ。他の音を全て遮断して全き静寂の中で音楽だけが聞こえるなんてことある?そんな非日常な場所をわざわざこしらえて聞こうなんて俺には理解できないよ」だから時にはお茶やケーキが出て、食器がカチャカチャ音を立てる中でパガニーニやソルやブローウェルなんかが流れてくる。いい時間だ。

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martha さんがブースト

クラシックギターの師匠が言うんだ。「たかが音楽でしょ」って。彼はその人生のほぼ全てを音楽に費やし、音楽での表現を追求し続けてきた人。もうほぼ埋もれかけている中世期からこっちのギター曲を掘り起こし、現代に再現することもライフワークとしている。寝ても覚めても音楽を追求し研究し研鑽を怠らない日々を数十年に渡って続けている人。
その師匠の口癖が「たかが音楽でしょ」だ。「音楽には人を救う力なんてないよ。感動を与える力も勇気を与える力もない。生まれた瞬間に消える。存在する時間なんてほぼゼロなんだ。聞いた瞬間に過去になっていくものだ」って。「だから音楽で人を救おうだの感動を与えようだの、大仰なことを考えるんじゃない。音楽にそんな責任を背負わせるなんてそんなつまらないことはないじゃない」って。「音楽はね、そこに"在る"、それだけのもの。それを聞いて勇気が出た、力づけられと言う人もいるのは確かだ。でも、それは受け手の心が音楽をきっかけに少し変化をした、というくらいのこと。元々あったもの、存在しているその人は何も変わらない。ほんのちょっとしたきっかけ、それくらいにしかなり得ないのが音楽だよ」と。

クリスマス@京都は初めて。美味しくいただきました。聖なる夜、すべての人に幸福がありますように。

私も幼少期は文字を読んでいる感覚さえ消失していた。今は音声と映像が半分ずつくらい。

martha さんがブースト

黙読のとき、脳内で声を聴いてるひとと全く聴いてない人がいるそうですね。私は日本語は後者で英語は前者、中国語は混合。

martha さんがブースト

小説を読んでいるときは、映像が頭の中を流れる派。想像できないものはほぼないので。映像が流れないと読む速さが落ちる。若い頃は字を読んでいる意識すら消失したが、今は文字やその音を気にするようになって本を読むのが捗らなくなった。

『her』、もう10年前の映画になるのか。いやはや。

martha さんがブースト

リアルの恋愛はいずれ誰もしなくなる。我々が恋愛する最後の世代で、おそらく近い未来には「恋愛するなんて昭和かよ」と言われるようになっているはず。現在も多くの人はぶっちゃけ恋愛してない。恋愛は得意な人のほうが少ない。おそらく代替が難しいのはセックスだろうが、これもロマンチックラブイデオロギーの解体とともに「ロマンスの相手」と「性的欲望の充足相手」はバラけてくるだろうし、バーチャルでの性的充足も実現がそこまで難しいものでもなさそう。人間の性的欲望にはかなり可塑性があるのでオンラインでARで充足できるようになるだろう。

アカウントの数だけ人格が分裂すると思っているので、これまでSNSアカウントを複数作ったことがなかったが、mastodonは複数作った方が楽しめそうな気はする。

martha さんがブースト

マストドンは分散型。せっかくなので、この際だから自己も様々に分散させることとする。個人は英語でindividual。これは要するに「これ以上分割できないもの」という意味で、近代社会はこの個人を主体として前提として成り立っている。ところがSNS以降の社会は実は主語は個人ではなく、 #ハッシュタグ なのである。個人=分割されえないものが分割され、タグによって再編され主語として立ち現れる。

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Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。