『日本人の法意識』川島武宣で、わが国の日常用語では、「調停」と「仲裁」という二つのことばの間には明確な区別がない(p155)とのべられている。1967年から今まで、そういう所は何も変わっていないのだな。
むかし飲み会で「従軍慰安婦は捏造」って熱弁するネトウヨに反論してたら「まあまあ、実際その場にいたわけじゃない俺らには何がほんまか分からんよな」って仲裁しにきた人いたの、事あるごとに思い出すんよね。
あんた織田信長のことも豊臣秀吉のことも「実際見てないから実在したかどうか分からん」つってんの?違うやろ。
デマと反論をどっちもどっち扱いして「仲裁」しに来るの、「いじめられる側にも問題がある」理論でしかなくて最低やけど、この人は周りに「バランスの取れた良識ある人」扱いされてたし、自分でもそのつもりやからしたり顔で「仲裁」しに来ていいことしたつもりでおるんよな。私的にはネトウヨの人以上に思い出しムカつき度高いんやけど。
「音楽なんてそれでいいんだ。日常にふと流れてきて、"いいな"とか"楽しいな"とか、そんな気持ちを聴く人に起こして、それで消えていくもの。人生を変えたり勇気を与えたり、そんな力は持っていない。日常の中にある、流れてくる、耳を傾けたり傾けなかったり、そこにいる人たちが時に応じて自分の気持ちを乗せたり乗せなかったり、ただそれだけのもの。感動を与えようなんて送り手が考えたら死ぬもの。人の心を操りたいの?そんな傲慢な話はないよ」師匠はそんな話をする。
だから師匠の演奏会は少し変わっている。外の音を遮断しない。通り過ぎる車の音、遊んでいる子どもたちの声、遠くで犬が吠える声、そんな日常の音が演奏会の途中にも入り込んでくる。「だって音楽ってそういうものでしょ。日常の中で聞こえてくるでしょ。他の音を全て遮断して全き静寂の中で音楽だけが聞こえるなんてことある?そんな非日常な場所をわざわざこしらえて聞こうなんて俺には理解できないよ」だから時にはお茶やケーキが出て、食器がカチャカチャ音を立てる中でパガニーニやソルやブローウェルなんかが流れてくる。いい時間だ。
クラシックギターの師匠が言うんだ。「たかが音楽でしょ」って。彼はその人生のほぼ全てを音楽に費やし、音楽での表現を追求し続けてきた人。もうほぼ埋もれかけている中世期からこっちのギター曲を掘り起こし、現代に再現することもライフワークとしている。寝ても覚めても音楽を追求し研究し研鑽を怠らない日々を数十年に渡って続けている人。
その師匠の口癖が「たかが音楽でしょ」だ。「音楽には人を救う力なんてないよ。感動を与える力も勇気を与える力もない。生まれた瞬間に消える。存在する時間なんてほぼゼロなんだ。聞いた瞬間に過去になっていくものだ」って。「だから音楽で人を救おうだの感動を与えようだの、大仰なことを考えるんじゃない。音楽にそんな責任を背負わせるなんてそんなつまらないことはないじゃない」って。「音楽はね、そこに"在る"、それだけのもの。それを聞いて勇気が出た、力づけられと言う人もいるのは確かだ。でも、それは受け手の心が音楽をきっかけに少し変化をした、というくらいのこと。元々あったもの、存在しているその人は何も変わらない。ほんのちょっとしたきっかけ、それくらいにしかなり得ないのが音楽だよ」と。
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またもや808。観たいがスケジュール的に無理🦆…
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美術系高校・学部卒→デザイナー→経理財務