エマの時もそうだったけど、森薫の「結婚」へのオブセッションは何だろう。いやそもそも主題が「嫁」の時点でそうなんだけど。
家父長制下の過酷な現実を(ぬるくではあっても)描かない訳ではないのに、どうにもこうにも結婚=ハッピーエンドという構図になる。
障害のある恋愛は描いても、結局は制度の中でみんな幸せになる。タラスに限らず、これまでの「嫁」たちのエピソード通して、システムへの批判は徹底して避けられている。
エマでも、エマ(女性側)が制度に適応するという形でのハッピーエンドだったし、タラスとスミスもそうなりそうだし。
アミルにしても双子にしてもアニスたちにしても、
家父長制度が生きていて、嫁ぎ先は父親が決めるもので、嫁いだら労働力と子をなすための道具で、
やってることはすごく前近代的なのに、キャラクターには「個人」としての性格が付与されているので、
それでも嫁本人が幸せになるには家父長制を肯定するしかない、嫁本人が結婚相手に恋愛感情を抱いて、システムに意図的に積極的に吸収されることを望む、ストーリーになる。
のでは。
あるいはキャラクターたちは一見「個人」として振る舞っているけれどいわゆる「近代的自我」を持たない、のかもしれない。近代的自我があったら到底耐え得ないような事態がたくさん起こっているにもかかわらずみんな幸せそうなので。幸せの基準が個人ではない。