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耳は聞こえるが声を発することができぬ唖者のため、手話を用いて意思の疎通を行う《図書館の魔女》マツリカ。
そして、常人よりはるかに鋭敏な感覚を持っているものの、文字の読み書きができないキリヒト。

ある思惑によって邂逅した2人は、やがて「新しい手話」を編み出そうと模索する。

『──音声も文字も言葉の最後の拠り所ではない。
 そのどちらにも拠らず、なお言葉たりうる表現手段はいくらもあるんだから。
 ただね、単なる叫びとは異なる、象徴的な記号や図絵とは異なる、真に言葉といえるものなら必ず持っている性質が少なくとも二つある』
(高田大介「 第一巻 (講談社文庫)」p.105 Kindle版)

……ファンタジー好きとしては所々に「あああそこは惜しいな~」と思える要素が散見されたのが玉に瑕だったけれど、内容が面白いのには疑いがない。

多分、合う人には合うし、合わない人には合わないはず。
1の言葉で100を想像させる表現があるとするなら、まさにこれはその対極に位置している……と思った。
描写、描写、描写、とにかく描写、描写が延々と続く中に、確かな悦楽がある。
まるで、言葉は決して単なる道具などではない、そう「ここでは言葉そのものが世界なのだ」と言わんばかりの圧。

"船員達は胴切りにしたトビウオの身に枸櫞(クエン)を絞り、上を向いて大口を開けるとつまみ上げた身をすとんと口の中に落として骨ごとかみ砕いて飲み込んでいる。
トビウオは透明に澄んだ身の詰まった淡泊な味で、すでに塩味があって酸味をつけるだけでちょっとしたご馳走になった"

高田大介「 第三巻 (講談社文庫)」p.234 Kindle版より

文字で読むからこそいっそう食欲をそそられる箇所……!
ここに登場する枸櫞(クエン)はシトロン、柑橘系の果物の一種である。

私は釣ったばかりの魚をそのまま捌いて食べる文化圏で育っていないので、正直なところ、引用部分と同じ光景が目の前で繰り広げられたら惹かれつつも尻込みすると思う。
しかし、小説に出てくるこの生魚の魅力的なこと。

海水と潮風によってもたらされた塩気、それをまとった艶めかしい透明なお刺身に、枸櫞の酸味が加わる。魚の身は果汁との対比でほんのり甘くも感じるに違いない。
慣れるまでは喉に引っかけてしまうという小骨も、現実なら食べにくいことこの上なさそうだが、こうして文章に書かれていれば食感に適度な歯ごたえを添えてくれる存在となる。

やがて食道から胃袋へ、つるりと滑り落ちていくお刺身の冷たさ。

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