また愛情の話
私の愛情の所在の証明は何よりも優先することだと最近確信したんだけど、それとセットになってるのが『ブレーキをかけること』で、それっていうのは、私が持ちうる愛情を注ぐ先の対象はおそらくその状態を受け入れ難いだろうなという想定からくる保険のようなもので、かなり肯定的かつ端的に言えば理性なんだけど、『私は大好きだけどきっと相手はそうじゃないな』という確信と保身からきてるんだよな。
一例を挙げるなら、SNSでフォローしてるだけの他人でも生活の一端を見続けていれば好意の対象になることがあるんだけど、私に限って言えばその好意の対象はかなり広く、好意という言葉以外に表現のしようがないのだけど、人が変われば好意という言葉の持つ意味の質量がかなり変わるから、好意があるということを口にすることもはばかられる。
Twitterで言うならリプライを全然しないのもこういうところで(相手に返信を強いる?ような気になるのが…(されるのは全く気にならない))、でも話はしてみたいからもくりはしたりしてたんだけど、サービスが終わるらしく…ブレーキを踏み続ける人生…
私が二次創作アカウントを何個も分けてるのって、最初に満足したら消すつもりでとあるCP専用アカウントを作った時、たまたまそのCPに私が見出したのがモラルあるやりとりの素晴らしさや互いを支え合う・尊重し合うことの尊さだったからそういう話を書いていたところに、「こんなお話を書けるあなたはとても素晴らしい人なんでしょうね!(意訳)」といった感想が届いて衝撃を受けたからなんですね。
私自身はいろんなテイストのフィクション(暴力・暴言・人の意思を踏み躙るなど)を楽しむ人間だし書きもするけど、そんなふうに見てる・楽しんでる人に忍びない気持ちがその時は勝った。それからずっといろんなアカウントを運用して楽しんでるけど、最近は別にいちいち分けなくてよかったかもなーとも思う。
20↑ いろんな話をします