読了 デカルト入門講義 冨田恭彦・信仰書として・どこに基準を置くか・階層的な(抽象的な)?世界観・この本に出てくる本が面白そう
神視点か懐疑する事ができる自分視点のどちらかしか基準としての候補が書かれていなくて(←うろ覚えだが)ジャパニーズのワイ驚愕
冨田氏があとがきに出してるけど、他者を基準を考える際の登場人物として考察しなくていいの?っていう。冨田氏は基準として出すかどうかではなく、懐疑する自分視点で他者は認識できるのか?という話をしているらしい。卒論がそういうテーマだったとか。我と汝の関係がなんちゃらって書いてあるから、たぶん関係性を通して認識する、とかそういう日本的なやつだと勝手に想像するけれど、冨田氏がそのテーマを追求していく際に開いている本が西洋由来である事が聞になる。東洋哲学ってそもそもあるのか?体系的になっていなくてバラバラで収拾がつかないとかそういう事?
ワイが行った学校、仏教系の学校だったので宗教学の時間があったが、仏教の説明をするために、基準として先にキリスト教の話がはじまって、ハァ?と思った時の事を思い出した。体系的になっているから基準になるの?何ほんと
神視点の話は無かったかも。よーわからんかった。自分視点の話だけれど、自分は夢の中にいる最中かもしれないとか、誤認するように妨害されているかもしれない、とか色々考えてた。疑わしい物を容赦なく切り捨てていくやり方にグッとくる物があった
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冨田氏があとがきに出してるけど、他者を基準を考える際の登場人物として考察しなくていいの?っていう。冨田氏は基準として出すかどうかではなく、懐疑する自分視点で他者は認識できるのか?という話をしているらしい。卒論がそういうテーマだったとか。我と汝の関係がなんちゃらって書いてあるから、たぶん関係性を通して認識する、とかそういう日本的なやつだと勝手に想像するけれど、冨田氏がそのテーマを追求していく際に開いている本が西洋由来である事が聞になる。東洋哲学ってそもそもあるのか?体系的になっていなくてバラバラで収拾がつかないとかそういう事?