デカルトの『方法序説』は著者がとうじのがっこで主流だったスコラ学の方法ろんをかたくるしくおもって、じゅうぶんなてつづきをしぼりにしぼる動機からものしたとゆ解説を読んできょみわいてるところ。にもかかわらずその後に展開した近代かがくは、かれが不じゆに感じたてつづきしゅぎにしがみつきなおして成果をあげた他ほ、文げや報道はしばらくのあいだてつづきから解放されて自ゆを勝ちとっていたようだ(ロマンしゅぎ)

でもげんざいは自ゆしゅぎてきだった分やもてつづきしゅぎに回帰しているよすがあるの、みんなほんとは行政文書みたいなの読むほが安心ですきすきなんじゃないの? ポストモダンとかオルタナティブトゥルスとかきらいじゃろ?

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ただしくはオルタナティブファクトだた気がする

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