>先生が祝賀会の翌日に謝ったのも、自身が寅子と気持ちよく別れるためなんですよね。

>ケアが相手軸ではなく自分軸、つまりケアしようとする人の側にあるんですね。...そこには彼の甘えがあるんです。

>でも、寅子は自分で立ち上がって戻ってきたプライドがありましたし、「穂高先生、ここまで来て、あなたは許しを私に強制するんですか」という気持ちもあったのかなと思います。

>ああいう場面で100点の答えはないと思うのですが、ただ謝るのは許しを請う行為になってしまう。寅子は責められることも背負って謝ったと思います。

吉田恵里香さん×小川公代さん特別対談

gendai.media/articles/-/139645

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『0からの風』という映画を紹介しましたが...「加害者の自分探しや、自分自身を許すために、遺族は存在するわけじゃない」

「自分探しのために、謝罪をしているんだろう」と言われてしまう。遺族の立場からしたら当然の反応

被害者が忘れ去られないようにすること、そのために自分に何ができるかを模索し、実際に試み続けること、そこに贖罪の内実があるというメッセージです。

彼が最初刑務所に収監された時に、贖罪や謝罪というものに、定型があると思っていたということです。最初は、水原も刑期を務め上げることが、贖罪なんだと思っていた

そこには、人間というのは何かしらそういう行為を犯したとしても、理解できるものだ、という前提があるのかなと

理解していなかったら、責任がないってことになりかねないですからね

過去の自分を理解するというよりも、むしろ自分が変わることによって、ある意味では償うことが可能であるような自分になっているのだと思います。つまり、彼が行なおうとしているのは、償いのスタートラインに立つためというか、第一歩を踏み出すために、自分自身を変えることであり、それが彼にとってまさに「自分に向き合う」ことであるように、私には映ります

「罪を償う」のはいかにして可能か?
shinsho-plus.shueisha.co.jp/ne

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