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寛容と不寛容の話 

ユダヤ人の作家が「私たちはホロコーストで、非武装のまま生きられるという幻想を捨てました」と書いた。寛容は不寛容に対して寛容であるべきか、という問いに対して、答える言葉は未だ見つからない。不寛容の存在を認めつつ、なお自らの主張を保ち、血みどろになりながら立つ、という覚悟を持つことは極めて困難だ。曖昧に耐える力、沈黙し、折れず、自らを保つ力について、考えている。自分自身の不完全が見える。それとどう向き合うか、ずっと考える。

すごく大きな話ではなくて、 

これは別のどこかで起きている話とかではなくて、同人のことだって良いのだ。逆カプの存在を許せるか、とか、アンチの存在を受け入れられるか、とか。どんなに受け入れられなくても、その存在までを否定することはできない。その状態を耐えること、相手を害さない態度を保ち続けること、の難しさの話だ。高潔さとかではなく、俗の中でそうありたい。という話がうまくできなかった、後悔なのかも知れない。

続き 

どこかで誰かがした表明に、自分の立場が脅かされるように感じた時、どのように振る舞えば良いのか、いまだにわからないのだ。とっさに反論して、人を傷つけている。沈黙を、時間を、もっと信じて良い。でも、自分がした反論の正しさを探してしまう。こうも愚かだ、と呆れる。繰り返す。進歩がない。自分にがっかりする。

おわり 

戦争や政治も、きっと同じ形をしている。木の根と葉脈が同じ形をしているみたいに、大きなことも小さなことも、仕組みは同じ。少しだけましになれるように、考え続ける。無力なままで、それだけが抵抗なんだろうと思った。

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