『夜警』
新月の夜。夕刻を過ぎて深い闇が地まで落ちると、森からさまよい出るものたちがあった。かげろうめいて歪んで揺れる、透明な影。取り残されたなげきやうらみ、そういった類いのよどみがかたちを得たなにか。
ふたりの風読みの子は、森の外側、荒野の丘の上から、溢れ出るさまよえるものの群れを見つめていた。
大樹の森。世界の果ての、風が生まれ、帰り着くところ。大樹の裾野に暮らす風読みたちはその両翼《みみ》で震える大気と、風の声を聞く。
森に生まれた風読みのひな鳥たちは十分に成長するとそれぞれにしごとを携え、森の外に出ることを許される。
このふたりのひな鳥に割り振られたしごとは、新月の森の夜警だった。
「この前ほどには、数多くなさそうかな」
「……うん」
「ねえ、また目で見てる? その耳の羽根はなんのためにあるの」
利かない夜目の一方で、側頭の左右に慎ましやかに広がる小さな翼にはもちろん、さわさわとしたざわめきが伝わっている。
「わかってる。ちゃんと聞いてるよ」
星明かりばかりの深夜の暗がりも、目に見えることだけに頼らぬ風読みにとってさほど恐ろしいものではないのだった。
ひな鳥たちのかばんは森で摘み取ったばかりの草花と木の実で満たされている。これはさまようものたちに呼びかけるための森の息吹であり、道しるべの明りだ。
明け方の星の光が薄れるころ、さまよい出たものたちはしずしずと森に帰って行く。だが、ときに道を失い戻れぬものがある。ほんとうの暗がりをさまようようになったものは、とこしえにどこにもたどり着くことはない。
あのものたちには明りが必要だった。夜警のひな鳥たちは、森を見失ったさまようものたちに森の一片を与えて導く。森に帰り着き、いつか大樹の根元に還る日が来ることを願って。
二手に分かれたひな鳥たちは荒野を渡る風を聞き、遠く森を離れて行きそうになるさまよえるものに道しるべを与えた。すっくと伸びた一輪の野の花を。つやつやとした木の実の成る枝、青い葉の茂る草冠を。
やがて新月の夜の終わり際に、ひとりのひな鳥は森に帰ってゆくものたちからぽつりと離れた存在を見つけた。
ひな鳥はかばんに残っていた小さな青い花が鈴なりに咲いている枝を、かげろうめいた透明な揺らぎに差し出した。
さまよえるものはゆっくりとした動きで花咲く枝を飲み込むと、透き通った身体のちょうど天辺あたりに掲げた。
けれども道しるべを得たはずのそれは、他のもののように森へと引き返すことはなかった。
ひたむきにひとところへ耳を傾けているような――何かを待っているような。
そうして、遠いかなたから響く歌声を耳にする。ひとより少しだけ多くを聞くことのできるひな鳥にはその意味が分かった。
「きみは、いってしまうの」
さまよえるものはものいわずして、静かにひな鳥の元を離れる。羽根《みみ》に触れるかすかな震えは、こぼれ出たかなしみの音に似て、なにかしらあたたかさを伝える音のようでもあった。
去り行くものと見送るひな鳥の背中越しに新しい朝がやって来る。
かがやく花の枝とさまよえるかげろうはゆらゆらと遠ざかってゆく。
日の沈む方角へ。たそがれの国へ。
やがてその姿は陽光の向こう側に見えなくなり、歌声も聞こえなくなった。
「泣き虫さん。引き上げの刻限だよ」
いつの間にかそばにまで来ていた片割れが、あきれた様子で、けれども優しい声音でささやいた。ひな鳥はふいと顔をそむけて言い返す。
「泣いてない」
「そうだね。まだ、ね」
夜の番の終わりに、ふたりの風読みの子はどちらからともなくゆるい調子で歩き始める。森の住処に戻って短い眠りにつくために。
さまよえるものたちもいまばかりは森の中、小さな花の明りのもとにまどろんでいることだろう。