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舞台『燕のいる駅』を観てきました。
推しが主演してるからというだけの理由であまり前情報は入れずに観に行ったのですが、登場人物たちの会話で織り成す世界が絶妙かつ奇妙で多くが語られない分、見終わったあとにいろいろ思いを巡らせてしまう作品でした。舞台上に構築されていく空気感も好みで観に行ってよかったです。

入場特典のフォトカード、ランダムだったんですね。入場特典あるのか〜って普通に受け取って確認したら推しだったよ👍

舞台『燕のいる駅』を観てきました(1/3)。 

あの世界の根底にある様々な影の部分が明確に語られないからこそ、現実にあるいろんな問題に投影しやすくて…その分、すごく刺さるというか、いつもなら見なくていいなら見たくないなって思ういろんなことを1枚薄膜挟んで向き合いやすくしてくれている感じがしました。
観る人によってはその薄膜が邪魔に感じるかもしれないけれど、私にはダイレクトに投げかけられない分、取りこぼしがしにくかった印象です。→

舞台『燕のいる駅』を観てきました(2/3)。 

作中、とくに後半で主人公の高島はその性格や行動から「のんびりしている(自分からはなにも決めないし動かない)」ところをなじられたり責められたりするんですが、私にはちょっとその辺りがホラー(幽霊や心霊現象のそれとは異なる)めいていて怖かったかな。

もちろん、あの世界の影の部分をわざとか無意識か認識していない素振りを見せる高島にも違和感があったけれど、そこを指摘してくる長いつきあいの彼ら(三郎と戸村)が、では、その長いつきあいの中で「のんびりしてる」彼に明確な答えを1度でも求めたのかな?と。
したかどうかは不明だけれど、三郎の言からすると高島のそういう「のんびり」部分がありがたいときもあったそうなので、わざと求めてこなかった可能性もあって…けれど、あの土壇場で高島に迫る2人が、あるいはああいう高島の人間性を作った周囲が私には怖かったんですよね。
本当に高島がなにもかもを認識していて、でも、わざと気づいていないふりをしているならそれもそれで怖いけれども、観た印象ではわざとではなさそうな感じがしたので…もちろん、本人に向き合う気持ちが生まれなかったのも問題ではあるんだけども、そこを許容してつきあっていたはずなのでは…と、うん…。→

舞台『燕のいる駅』を観てきました(3/3)。 

そして、中盤から終盤で戸村がホー厶にあった燕の巣と雛の顛末を頑なに高島に隠そうとするくだりも、私には「戸村のやさしさが高島に現実を直視する機会を奪っている」ようにしか見えなくて、こういうことが高島の人生で何回も繰り返し起こってきたからこその今の高島の人間性なのでは…とゾッとしてしまったんですよね。そして、ラストのあれだったので…「あ、ホラーだな…これ…」となったのでした。

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