舞台『燕のいる駅』を観てきました(2/3)。
作中、とくに後半で主人公の高島はその性格や行動から「のんびりしている(自分からはなにも決めないし動かない)」ところをなじられたり責められたりするんですが、私にはちょっとその辺りがホラー(幽霊や心霊現象のそれとは異なる)めいていて怖かったかな。
もちろん、あの世界の影の部分をわざとか無意識か認識していない素振りを見せる高島にも違和感があったけれど、そこを指摘してくる長いつきあいの彼ら(三郎と戸村)が、では、その長いつきあいの中で「のんびりしてる」彼に明確な答えを1度でも求めたのかな?と。
したかどうかは不明だけれど、三郎の言からすると高島のそういう「のんびり」部分がありがたいときもあったそうなので、わざと求めてこなかった可能性もあって…けれど、あの土壇場で高島に迫る2人が、あるいはああいう高島の人間性を作った周囲が私には怖かったんですよね。
本当に高島がなにもかもを認識していて、でも、わざと気づいていないふりをしているならそれもそれで怖いけれども、観た印象ではわざとではなさそうな感じがしたので…もちろん、本人に向き合う気持ちが生まれなかったのも問題ではあるんだけども、そこを許容してつきあっていたはずなのでは…と、うん…。→
#和田雅成 #燕のいる駅 #観劇
舞台『燕のいる駅』を観てきました(1/3)。
あの世界の根底にある様々な影の部分が明確に語られないからこそ、現実にあるいろんな問題に投影しやすくて…その分、すごく刺さるというか、いつもなら見なくていいなら見たくないなって思ういろんなことを1枚薄膜挟んで向き合いやすくしてくれている感じがしました。
観る人によってはその薄膜が邪魔に感じるかもしれないけれど、私にはダイレクトに投げかけられない分、取りこぼしがしにくかった印象です。→
#和田雅成 #燕のいる駅 #観劇