被害者が加害者を許したり優しくケアする必要はマジで本当に無いけど、差別や加害を無くしたいと考えている人達のとりあえずの現実的な落とし所(?)ってどういう感じなんだろう
差別をすること、差別をやめること、差別に反対していくことってそんなパッキリ綺麗に分かれている話じゃないと思うし、重なってたりグラデーションだったりする中で『正しい』反差別は勿論すべての人が目指すべき道ではあるものの、実際問題、現時点(通過点)での目標みたいなものってあっても駄目なのかな
いや書いてて思ったけどそういうのはあんまり良くない気がするな…どうなんだろう…
こういう時にアライの存在が重要になってくると思うんだけど、観測範囲だと(自分も含めて)なんらかの当事者が別の差別に関してアライでいるケースが多くて、何か不安というか心配になる
個人的にはアライを増やすことはかなり大切だと思うものの、私は自分自身が全然ちゃんとしたアライになれてないという負い目がある
当事者視点では「完璧なアライなんて存在しないんだから誰もが自分を大切にしながら一人ひとり出来ることをやってくれたら嬉しいし助かる」なんだけどな
ていうかこんなこと考えて悩んでる時点で私こそまだそんな地点なの!?てかんじなんだよな
今つらい思いをしてる・過去にしてきた人達の傷や悲しみや切実さを蔑ろにしたいわけでも、「だから差別を許そう!」と言ってるわけでもないです……
そもそも差別って命にかかわる急を要することだし…
かといって差別が組み込まれている構造というものがすでにあって、それをどうにかしないと構造の中で生活している人間の意志とは無関係であっても差別は続いてしまうわけで、だから早く差別を禁止するシステムを作って運用してくれという話になるんだよな……………