「差別をやめられて偉いね」という言葉がどういう立場の誰を傷つけているかということは何度も考えるし、それを被差別者にも見えるところで言うのはマジでやめるべきだと思うんだけど、人間の弱さとか脆さとか愚かさとか柔らかさとか硬さを思うとどうしてもその気付き自体に対してなんらかのエール(かなあ…?)を送りたくなってしまうんだよな…まああんまり良い話じゃないんですが………でも相手も人間なので…
共感と経験から連帯して女性差別に怒って反対していた『フェミニスト』の人達が、やはり共感から連帯してトランス差別に走るところを何回も見ているので、そういった気付き方に危うさがあるのはわかるんだけど、自分に子どもが生まれて初めて自身の行っていた差別行為に気がついて反省してこれからは変えていきたいと言っている人が「そんな気付き方じゃどうせ駄目」とか「そんな話はすでに何度もされている」とか言われてるのを見たらめちゃくちゃ悲しくなってしまった
今初めてようやく過ちに気づけた人はこれからいくらでも学んで変えていかれると思うんだけど、被差別者の人が憤るのも別ベクトルでは妥当なわけで、こんなことを考えて落ち込んでる時点で、正しい反差別と正しくない反差別があるなら私はおそらく後者なんだろうな…と思う
まっとうは人権教育もされてない、法律で差別を禁止することもできないようなおしまいの国で、現状特に何も困ってないマジョリティが「差別って駄目なんだ」と心から思えるのって難しいと私は思う
加害や差別を正当化する意図は本当に無いんだけど、現実問題、「同じことを奥さんや娘さんに出来ますか?」とか言われて初めてセクハラとかの不味さに気付くオジサンとか、不味さに気付けるならまだマシなほうみたいなレベルの国で、「差別主義者と言われようが自分はこれからも差別を続けていきます!!」とかほざく奴ならいざ知らず、初めて「差別って駄目なんだ……今まで自分はなんてことをしてきてしまったんだろう…」って気づいて反省してる人を責めるのはなんか、正しいのかもしれないけどそれ以上に厳しいと感じられてしまう……
じゃあどうすればいいんだろうというのはもちろん考えなきゃなんだけど…
自分が今までしてきたことの酷さとか愚かさに気付いて打ちのめされてる人を、反差別をうたう人達がさらに厳しく諌めている横で、差別者達が「そんなことないよ、あなたは悪くないよ」と優しく励ましてるうちに結局その人はもっと差別する側に寄っていってしまう………、というような場面を何度も目にして、なんかこう、そういうことをとても考えてしまうようになったんだけど、これも変に意識しちゃうとなんか支配的な思考だよな〜〜〜〜…とも思うし、難しいよぉ……