「オタクなら◯◯を通読しろ」といういにしえオタクムーブ第2弾を目撃した。

「読め」というオタクと「これを調べるのに金と労力がかかったんだ、出典なんて教えられるか」オタクと

パウル・カレルを今読むのって、能動的な意義としては、それこそパウル・カレルに興味があるか、言い出しっぺの「昭和50年頃のオタク」の追体験(=メタ・オタク論的な?)で、大体が「まあ読んでみるか」な消極なものかと。

高校生の時に『彼らは来た』が復刊されて、(当時としては)大枚叩いて買ったけど、分厚さに怯んで結局積んで、そのまま実家に残したまま転居した訳だけれども、結局そっちも引っ越したときに捨てられた模様。

今のオタク、「オタク」自体の定義の緩さ(見た目が悪い=オタク、とか)やらオタクカルチャーの一般化、コンテンツの供給過多もあって、いにしえの「網羅」ではなく、「2話で切ったわ」で盛り上がる「選別」にシフトしてしまっている感がある。

で、パウル・カレルもプロパガンダとして選別されるものになっている、ってことだよね。

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選別の手段も、面白いか面白くないか(有用かそうでないか)ではなくて、良くも悪くも人で判断してしまっているケースも起こっている。
これとか、完全にフォロー罪。

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