『ウーマン・トーキング』を観た。

 涙が止まらなかった。
 読み書きできず、学ぶ機会を奪われている女性たち。
 そこでは女性たちは、もっぱら男性をケアするためだけに生きている存在、におとしめられている。
 そんな女性たちが、女性たちだけで話し合い、人生を自分の意思で選び取っていく光景が、力強い。
 私の身体は、私のものだ。
 だれにも傷つけられてはいけない存在だ。
 安心して暮らしていく権利があるはずだ。
 基礎知識がなくとも、肌感覚と直感で、確信をつかむ。
 そこへ阻むのが、「罪を赦さないと天国へ行けないのでは」という信仰の壁。
 たしかにイエズスは何度も「赦しなさい」という。
 でもその教えは、「ひどいことされても無条件に許しなさい」というメッセージなのだろうか?と彼女たちは疑問を吐露し、議論する。
 加害者の真摯な謝罪・贖罪があれば「赦す」気にもなれるけれど、それがないまま被害者に「赦せ」と迫ることは、「罪を犯したもん勝ち」と何が違うのか。強制される、自由意思ではない「赦し」は果たして、イエズスのいう「赦し」なのだろうか。(続)





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 アーミッシュのようなコンミューン。時代劇のような光景なのに、突如ポップな“daydream believer”が鳴り響き、2010年だと知る衝撃の演出。
 保守的なキリスト教のコミュニティはもちろん、どの宗教団体でもあり得る「教義の歪み」。男性中心社会が教義を歪ませ、女性信者をがんじがらめにして自由と尊厳を奪う。
 たいていの人が男性と神へのおそれゆえ口を閉じ、耐えるしかないと選択してしまうところ、作品中の女性たちは、そうはしなかったのが、ほんとうによかった。
 子どもの安全を守ることが許されないなら、地獄の火で焼かれてもいい、と叫ぶサロメの言葉に落涙。
 夫の暴力に耐えろと説得し続けた母親が、娘にきちんと謝罪したのも、よかった。
 最後の最後、「赦す」選択をして残った母は、娘たちを「逃がした」。フランシス・マクドーマンドは表情一つ変えずに、たたずまいで私を泣かせる。天才。
 男子をどうすればいい?という問いに、13歳にもなったら基本的にはもうホモソに染まりつつあるけれど、教育次第で非暴力な人間に育つことも可能だ(大意)という回答が、『これからの男の子たちへ』に通じるものがあって、よかった。書記役の彼は、あの後どうなったのか…。





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