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江永泉と米原将磨「光の曠達」 2023年7月号 ジャクリーン・ローズ『ピーター・パンの場合 児童文学などありえない?』

精神分析批評の紹介に関連して、ジェクリーン・ローズのフェミニズム的な観点からの精神分析批評と、リー・エーデルマンによる<大文字の子供>批判とがどのように結びつきうるのかを述べたりしました。

該当箇所のパワポを引いておきます。

12.【<子ども>像の批判1:アンチソーシャル・クィア理論への架橋】
フロイトは、子どもがどのようなものと推定されるかということだけでなく、もっと重要な、私たちはそもそもなぜ私たち大人自身の言語や性との関係にもとづいて子どものイメージをつくりあげようとするのか、ということに疑いを投じたのである。(『ピーター・パンの場合』40頁)

生活のためのことば、永遠の文学――そうした訴えは無垢だ。だがこの無垢さは、私が本書で考察してきた他のすべての無垢さと同じく、綿密な吟味を必要とする。なぜなら、生活のためのことばや永遠の文学とは、まさに『ピーター・パン』のような作品の持続力にある推進力のひとつである、同じもの(同じ子どもと同じ文学)の永遠の反復以外の何ものであろうか。(『ピーター・パンの場合』232-233頁)

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13.【<子ども>像の批判2:ローズからエーデルマンへ】
歴史のなかで同性愛が画然とした社会類型として構築されていくのと[クラフト=エビング『性の精神病理Psychopathia Sexualis』1886]、以下に挙げるような文学作品の出現が重なっているのも、やはり、ゆえなきことではない。すなわち、ティム坊や[ディケンズ『クリスマス・キャロル』1843]、デイビッド・バルフォア[スティーブンソン『さらわれて』1886]、そしてピーター・パン[J・M・バリ『ピーター・パン』1904]たちが、今日ではハリー・ポッターとヴォルデモート卿との不気味に密接なつながりによって最も明白となっているような強制力のうちで、結婚していない男たちと〈象徴〉的な対抗関係を演ずる作品のことだ(スクルージ[vsティム]、エビニーザ伯父さん[vsバルフォア]、フック船長[vsピーター・パン])。この独り身の男たちは、ヴォルデモートがその名前[Vol de mort死の飛び行き]ではっきり示しているように、〈子ども〉の破壊を引き起こすはずの死のほうへと向かっていく願望、意志、あるいは欲動を体現しているのである。
(リー・エーデルマン『No Future:クィア理論と死の欲動』2004年、21頁、私訳)

14.【<子ども>像の批判3:ローズとエーデルマンからその先へ】
・WEBで読めるエーデルマン『No Future』参照例(日)
武田悠一「ヒッチコックの学校――『鳥』のクィア・リーディング」『英文学研究 支部統合号』第10巻、2018年、日本英文学会
・WEBで読めるエーデルマン『No Future』批判例(日)
宮永隆一朗「It’s About Time――クィア・エイジングの理論へ向けて、または映画『ベンジャミン・バトンの数奇な人生』とポジティヴ・エイジングのイデオロギー」『年報カルチュラル・スタディーズ』第8巻、2020年、カルチュラル・スタディーズ学会
・ローズ『ピーター・パンの場合』応答例(英)
Gabrielle Owen「Queer Theory Wrestles the “Real” Child: Impossibility, Identity, and Language in Jacqueline Rose’s The Case of Peter Pan」『Children’s Literature Association Quarterly』Vol. 35 Number 3、2010年

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