SFマガジン「ファッション&美容SF特集」の予告を見て、あらためて『matotte.』のことを考えている。
ファッションSFウェブジン『matotte.』4月号(創刊号)感想|青島もうじき
https://note.com/aojima__/n/n6c814f26a233
二年ほど前に上の記事でも書いたことだけど、ファッションというものが「自分と世界の接点に生じるインターフェイス」であるのだとすると、それは、自分と世界とを往還しながら操作し続けるサイバネティクス的な試みにほかならないのだと思う。
わたしはSFのSF性を「そこに他者の存在すること」に求めているので、SFというのは比喩でなくまさにファッションを意味するのだと考えている。
関連して、フィルムアート社の『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ』に収録されている小澤京子による「身体」の項の記述がとても好きで、わたしはよくそれを参照している。
> 装うこと、身体の外貌を替えることは、自己の身体のコントロール権や決定権を自分自身が握っていることの確認となる。しかし他方で身体や身体イメージには、「他者性」とも呼ぶべきものも残り続けるのではないだろうか。(105頁)
こうした思想は『matotte.』にも通底していたように感じる。
感想記事の「はじめに」にわりとまとまったことが書いてあったので、そのまま引用。
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上の投稿のようなことを踏まえて作ったのが小著『私は命の縷々々々々々』のガジェットのひとつである「思弁服(ミミクチュール)」だったり、『matotte.』収録作の「円にミソハギ」だったりするので、上の話のどこがSFにつながるのだ、と思われるかたはケーススタディとして参照してみてください。
「思弁服」は自己と他者の混淆する場として常に形状を変化させ続ける制服。
「円にミソハギ」はタトゥーの社会的な記号としての側面について扱った短篇。