これは口を酸っぱくして言い続けていることだけど日本における差別の最大の問題は、差別に対してあまりに寛大過ぎることだと自分は思う。
積極的に差別する人間は比較的少ないかもしれない。一方で差別に対するカウンターや批判はあまりにも少ない。これは体感ではなく学術的にもされている(ソースは今探し中笑)。かつてキング牧師は、普通の人の無関心が最大の悲劇だという趣旨の発言をしていたが、それを日本という社会は体現してしまっている。経験者なので分かるけど、直接加害されるよりも怒ったり抗議したりしてくれる人が少ないほうが絶望や孤独感を感じ易い。また、差別を黙認するという消極的差別な姿勢は当事者意識が極めて欠けているが故に飛び出すものなので、日本に◯◯差別は無いんじゃないかな〜?という態度にも繋がり易く、ある意味では直接的な差別よりたちが悪くなる時さえある。
また過去の裁判所の判決を見れば嫌というほぢ分かるが、差別を差別と認めず「偏見」「嫌悪」などと言い換えている例が非常に多い。日本社会の人権感覚の低さが原因なのか、この国はとにかく差別を差別と認めない。最低限のラインにすら立てていないのだ。人権の話になると「普通の日本人」と絶望的に会話が噛み合わなくなるのはその辺りが原因だろう。

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何故この話を改めてしようと思ったのかと言うと理由が二つあって、一つは自分が最近そういう目に遭ったから、もう一つは司法が頑なに差別を差別と認めない判決が最近も出ていることを知ったから。
まず一つ目だけど、自分が前の職場で差別的なパワハラやモラハラに遭っていた時に、同情したり問題解決に動いてくれたくれた人はいても、その理不尽な態度を一緒に怒ったり抗議してくれた人がネット以外誰もいなかったから。もちろん(自分の上司との)関係悪化が嫌だからというのが最大の要因だろうけど、理不尽に対して怒ってくれる人がいないことが、ここまで当事者を心細く絶望的な気持ちに追いやるのかと。
そして二つ目が、岩波の『世界』8月号(安倍安倍晋三の銃撃から一年というタイミングで政権の罪を取り上げたせいかTwitterでアカウントが凍結されて話題になったやつ)を読んでいたら、ウトロ地区への放火という明らかなヘイトクライムを「特定民族への偏見と嫌悪」と表現するなど「差別」という表現すら盛り込まれなかったという。入管法改悪などみそうだが、この国にしてこの司法ありというか...。とにかく差別を差別と認めず「偏見」「嫌悪」で濁すという最悪なムーブ。日本に◯◯差別は存在しないという主張は、司法や政府のこういった姿勢密接に結び付いている。

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