画像生成AIについて たぶん1/3
実は私は「AI絵師」を名乗ることや生成AIで画像を作ることそれ自体については特に反対していない。あのAIに思ったような画像を吐かせるプロンプトを書けるならそれはそれで1つの技能だと思うし、アナログ絵からデジタル絵への移行とか、もっといえばBlenderで画像が作れるのと同じようなもんじゃないかと思うから、制作時間や才能の問題が減ることがイコール絵師ではないとか(そもそも「絵師」って言葉、私は使わないけど)ではないと思うんですよね。それ自体は1つの制作の形じゃんと思う。
今のところ把握している問題は2つ。
1)そっくりさん問題
既存著作物の作風そっくりさんとかが出てきてしまう問題。ただこれはどちらかというと、AIそのものの問題というより、使う人が悪いって話。学習データを意図的または非意図的に偏らせたり、特定の人の作風をまねるプロンプトを入力するというような。これを理由にしてAI=悪とするのは、コピペ論文を出す奴がいるからコピー&ペーストという技術が悪いというようなもんだと思う。
画像生成AIについて 3/3
だから言語系生成AIのしくみと弱点を理解した上で、なお何らかの有効利用が可能だと判断し、実際に利用できるというのであれば(つまり、生成する本人が決して騙されないというのであれば)、私はその使い方に異論はない。それは画像生成AIを使って新たな芸術画像を作成するのと同じことで、いわば人類の集合知の体現である。その上で、それが検索に引っかかってしまうとか、内容が偏ってしまうという問題があれば、画像生成AIと同じ目線で語られるべきなのだとも思う。
だけど、人はこの「それっぽく話されたらうっかり信じてしまう」という認知から脱することができるのか?無理じゃないか?画像生成AIとは根本的に異なる問題が言語系生成AIにはあるんじゃないか?
と、そういう立場です。
偏ったAIをつくろうとする輩に画像を取られないようにするとか、そういう「規制がまだだから自衛する」動きは別に否定しないよ。でも「AI絵師は絵師じゃない」はね、必ずしもそうじゃないと思うのよね。そんな話。
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ああ、あと画像と言語の共通の問題として「偏見の再生産」がある。これもAIそのものというより学習データの問題ですね。まんべんなく学習することが集合知としての新芸術の生産につながるが、同時に偏見の再生産につながるという。
なんかこれはあれだ、人類に絶望しながら新たなプロンプトを模索して無理やり吐かせていくしかないんじゃないかと…逆に言えば反差別文脈のAI生成物によって偏見を駆逐するみたいな運動になり得るんじゃないかと思わなくもないです。そしてそのためには生成そのものというよりも、それをネット上に残すという行為において、やはりAIではなく人間による「出しても良いかどうか」の判断が絡むわけで、まあ結局は使う人の問題では?的なね。
画像生成AIについて たぶん2/3
2)フェイクと汚染の問題
写真に似たものを制作できるために検索結果が汚染されたりフェイクニュースが出たりするという話。これは技術そのものの問題(質の問題)というよりも量の問題。確かに検索結果の汚染は問題だなと感じている。芸術としてのAI利用と現実を汚染するAI利用の区別は難しい。ここに関しては「議論の余地あり」と思っている。生成AI=悪、利用停止とは言えないだろうが、何らかの方法での規制は必要。どうやって?何を?の線引きが問題なのであって、生成AIが悪いわけではない。
こういう風に考えるのは、私が根本的に絵描きではなく字書きだからかもしれない。私は言語系生成AIにはかなり否定的であるからしても。
が、私から見ると、画像生成と言語系の生成は問題が根本的に違うと感じる。画像生成AIでいう問題(2)は、画像生成AIに画像を生成させる本人はそれが本当だと信じる余地がないが、第三者が検索したときに引っかかってしまうために区別がつかないのが問題だという話。しかし言語系生成AIがうそをつく(ように見える)のは単なる予測システムでしかないという根本の仕組みの問題。構造さえ整っていればそれらしく見えてしまう人間の言語認識の問題とも言える。