最近仲間と音楽談義をしていて「心とか情念とかを重たく忌避感すら持つ感覚」について話していた。初音ミク的なものに慣れ、言葉は記号とフック(これは後述)としてだけ機能し、リスナーはネットを介し薄く消費する。そういった薄っぺらい世界を求めている傾向。
例えば私の世代にしても演歌などは好まない人が多いわけで、それはやはり「重い」からというのが理由の一つだろう。しかし尾崎豊的なものや中島みゆき的なものもあり、ブルーハーツてきなものもあった。基本的に重暗い情念のようなものは戦後着実に減退してきたと言えるのかもしれない。
この減退の流れに拍車をかけたのがスマートフォン文化ではないかと感じる。デジタルがいよいよ身近となり、それと同時に人との直のふれあいがトレードされた。コロナ禍はそこに拍車をかけた。そうして心というのはデジタルの壁の向こうにあるものとなり直接触れることは「生魚は臭いから嫌だ」的な忌避的感覚が強まったのではないだろうか。
じゃあ音楽に言葉は、歌はいらないかというとそこだけは違ってて、楽器などに親しみのある人は楽器それぞれの音を楽しんだりできるが、そうでない人はまず歌を聞く。そこがフックになるため人工的であっても歌は要るのだろう。
なので、あくまでも引っかかるためのフックとして必要なのだろう。