日本のポップスは「間違えてもいい!」というメッセージがとても多いが、本当は間違えてしまったときどうするかということが必要なのではないか。歌の上で免罪されても、本当にその場になったときの支えにはならないのでは……。間違えたとき、どう変えて行くかという提案はなく、ただ「間違えてもいい!」というのは不誠実ではないのか……。
私も間違う。だが、私は間違ったことだけを免罪されたいのではない。どう修繕し、どう起き直るか。ポップスにだけその答えを求めても無理だろうけれど、「間違えていい!」という瞬消する嗜好品のごとき快楽だけでいいのかな、とは常々思う……。
「間違えてもいい」から「ぶっちゃけ主義でいい」までの距離は近い。それは、理念をなくした世界だ。「ひとを傷つけるのは不可避だ」から「ひとを傷つけた方が得だ」とシフトされる世界は嫌だ。
「間違えてもいい」と言うメッセージからは、間違えられて踏みつけにされた方は見えてこない。いま本当に必要なのは「間違えられたので、許さない」という歌なのではないか。差別の快楽と、許される快楽で恍惚としてしまうマジョリティに、否という歌が要る。
「キャンセル・カルチャー」というけれど、マイノリティをキャンセルし続けてきたことをスルーしていないのか。「え?俺は権力をもっているのに、キャンセルされるの?」というのが、愚かなのだと思う。その権力をもってガシッと踏みつけた相応の力でキャンセルされるべきだと私は思う。
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「キャンセル・カルチャー」というけれど、マイノリティをキャンセルし続けてきたことをスルーしていないのか。「え?俺は権力をもっているのに、キャンセルされるの?」というのが、愚かなのだと思う。その権力をもってガシッと踏みつけた相応の力でキャンセルされるべきだと私は思う。