スポーツの観戦は苦手で、勝負があり、誰かに肩入れさせる圧があるのが苦手(それがナショナリズムと近接する)自分でスポーツをするのも「勝ち負け」的なハードルがあった。
最近は、そういうものから離れて、プールで歩いたり、バッティングセンターでバットを振ったり、温泉ピンポンしたりならスポーツするのを楽しめる気がしてきている。汗をかいて、若干の負荷を身体にかける。若干の負荷とはごく軽微な自傷で、ごく軽微な自傷の回復によってメンタルの傷つきも連動して回復する。心身は並行していると実感できるのがスポーツかもしれない……。
ちなみに、心身並行論を採用しているけれど、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」という説は採っていない。人間には結果しかわからない。原因はさまざまな時間を含んだ束として編み合わさっていて、一本だけを引き抜いてみても意味がない。そして大きな結果の前に、原因と結果が反転し合う小さな回転があるのではないかと思う。
「なぜ」は「意志」とつながり、「責任」とつながるが、文脈がこんがらがっていない単純な責任などない。