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「モデル被害者」や「モデルマイノリティ」がマジョリティに想定されていて、彼女彼等には「一点のくもりもない純白さ」が求められる。そして、過度に通俗道徳に沿う生き方が押しつけられる。
本当は、生きるための際際で、際際の戦略と賭けで動くのがマイノリティの「行為主体性」なのだ。
それは「下方比較」でもマジョリティに押しつけられる。「もっと可愛そうな、”本当の弱者”もいるのに!」と。
そうではないのだ。マイノリティがその実存の際際の中で、社会に要請される「モデル」を演じてしまうこともある。弱者度の偏差だけで捉えると「弱者なのに適応できていてズルイ!」となりやすいが、それは「正義」の視点ではない。

その中で、「戦略」さえも折られてしまう人々も、そのようなものに辿りつけない運や能力の場合もある。

大切なのは、その「モデル」を要請する言説が一体どういう立場からの視点なのかということ。「モデルの純白さ」によって「安心」を得てたい立場から、ジャッジの快楽だけを得ようとしていないか。それはよく目を凝らして見た方が良い。

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