ツイートアウト日本時間だと16:00から24時間らしくまぁ私も参加しよとは思うんですけど、それはそれとして呼びかけをしたツイートが青色投票者へ という呼びかけをしていたのを意図的になのか訳さずにツイートされてたのがムーブメント化してるのはなんか喉に詰まるもんがあるんだよな…ていうのを捨てられないでいる。
じゃあ共和党支持者がイーロン・マスク気に食わねえな〜ていう人少なからずいないわけでもないんじゃね?そっちは?ていうその時点で分断されている気がするし、アメリカ在住で選挙権をまだ取得できてない状態の人のことも…て思っている。(これはその状態のフォロイーさんが悔しそうに吐露されていたので)
他国の政治姿勢についてなにを支持することが無駄だとは思わないけど、明確な呼びかけ対象の部分を削ってしまってるのはな〜ていうね……
→
戦時中の被害については子どもの頃から色々読んだり聞いたりはしていて、自分の住んでいる(といってもだいぶん地域は違うけれども)東京の大空襲の話だの、原爆の話だの、沖縄戦だの、というのは例えば祖父母が買ってくれた子ども用の本の時代から色々と目にしてきた。
ただ、私が子どもの頃には、直接に東京大空襲のど真ん中にいた、被爆をした、沖縄戦を生き延びた、という人たちは周囲にはいなくて、だから私はそれを、時間的にも地理的にも遠くない歴史の上の決して忘れてはならない出来事、という感じで理解していた。
もちろん両方の祖父母はそれぞれに戦争でそれなりの苦労はしたしその話も聞いたけれども、それでも私の祖父母は4人とも戦争を生き延び、戦時中に空襲などで亡くなったおじやおばもいなかった。かなり幸運だったのだろうと思う。
なので「日本人としての被害」という感覚は、正直よくわからない。被害は私(たち)のものではなく、戦禍を生きた個々人のものであるように感じる。
もちろんこれは、実際に戦争ではるかに大きな被害を受けた人々の子どもや孫が「自分(たち)の被害」という感じ方をすべきではない、という話ではない。
正確に言うのが難しいのだけれど、今回のバービー公式の話にせよ、毎年8月に出てくる「唯一の被爆国」云々にせよ、「我々=日本人の加害と被害」という枠組みは、私には感覚としてはあまり良くわからない。
というか、加害の方について自分がそれに連なっているという感覚は、強くある。
それは私自身が子ども時代を過ごした東南アジアで日本軍の暴力について直接間接に見聞きしたり学んだりして育ったというのもあるだろうし、そもそも私が東南アジアにいたのは東〜東南アジアの戦争を背景とする日本の高度経済成長に乗っかった父親の仕事があったからだという感覚も関係しているし、そうやってさまざまなレベルでの加害を積み重ねつつ戦争責任の拒否と歴史修正とに全力邁進する自民党政権を擁する国のパスポートを持っているから、というのもある。
ただ、被害については、あくまでも私自身は、それを「自分の(自分たちの)」被害である、と感じたことはない。
→
この傾向を更に延長した先にあるのが、大阪の空襲被害を展示する市立博物館の「ピースおおさか」の展示だ。
維新主導による「改装」ののち、それは日本のアジア「進出」を正当化し、太平洋戦争を欧米への抵抗として描くセクションから始まるようになった。
そもそも、歴史修正=ヒストリカル・リビジョン、つまり歴史の見直しというものが、ドイツおけるドイツ戦争被害者への注目に端を発したことも思い出してよい。
「我々の側の死者も悼まれるべきだ」という発想それ自体はせいとうだが、そこには危うさが常に含まれる。
ドイツ人の犠牲に大きな反省を含みつつ言及した名作、『ブリキの太鼓』の作者が、バルト海経由でのドイツ人引揚者の苦難を描くことを通じて歴史修正主義に合流してしまったことにも注意してよい。
「ヒロシマタイムライン」の例にもあったように、日本においてはその矛盾は日本帝国の植民地・被占領地の扱いとして現れる。そしてそれはもっと大きな問題の一部であるに過ぎない。
正面から書いておくけど、この件、何が遺憾であり、何に対して配慮を求めてるんだよ、と思う。
そもそもそれはどんな戦争であり、誰が始めたのか。それに対する「配慮」を欠いた抗議をすることは何を意味するのか。
もちろん、それとこれとは別だという考え方はある。世界に悲劇がたくさんある中で、日本で起きた大量死について、日本人が悼み、悲しみ、死者の尊厳を守らなかったら誰がそれをするのか。
そういう理屈はあり得るし、僕も広島に行ったときにそのことを随分考えた。
しかし、そもそも広島にある平和記念資料館自体が、すべての被爆者を同等に悼んでいるわけではない。「改修」後のあそこで見せられるのは日本人被爆者のヒロイックな姿だ。
広島に住むことを強いられていた朝鮮・韓国人の被爆者は一人しか紹介されず、その人がそこに来た経緯も、戦後の日本政府による扱いにも触れられることはない。
バービーは凄いフェミニズム映画なので批判しているのはネトウヨだろという映画評論家氏の発言するが目に入ったのですが、私から見えている絵柄と違うなと思うのは:
1. そもそも英米系のガチフェミクィアさん達はバービー凄いフェミニズム!と最初から思ってなくてむしろホワイトフェミニズムも大概だろとか基本マーケティング戦略じゃんとか(どちらも正しい)批判的。大手メディアでもフェミ系からは手放しの評価より「バービーを今さらフェミニズムに引き戻せるのか?どうでしょう?」という疑問文的な提示が多い。
2. それを踏まえた上でバービーの魅力を語る事はできるのか、そこに誘因はあるのかという話しているfemme研究者はいて、黒人のディズニープリンセスを商業的ギミックに過ぎないとして切り捨てる事はできるのかという問題とも接続するもので、個人的にはここに興味がある。
→
ヴァチカンのエクソシストのプロデューサーさん、高校時代かなんかに日本語だか日本文化取ってたらしくてとても日本語が堪能でらして日本のヴァチエク感想とかファンアートに主演のラッセル・クロウともどもめちゃくちゃ反応したりリプしたりしてた上に日本プロレスオタク(なぜかヴァチエク宣伝に日本プロレスを絡めてくるw)けどバービー公式の代わりに「アメリカ人のみんながみんなミームを楽しんでいるわけではではない」と代弁してくれてはいるんだが、戦争ではなく愛を ていう言葉はいいね
they/AroAce.将来の夢は火星のダクトテープ/FF14 Mana DC Masamune(C) SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved. 自機エレゼンに対する劣情を抱えるおたく