アメリカ出身のピアニスト、Leo SvirskyのRiver Without Banksというアルバムを聴いた時、僕は粒子的音像世界の中にいた。
2台のピアノによる、密度の高いアルペジオで紡がれる音像世界。
一つの音を構成する、一粒一粒の粒子を表現しているかのように感じる。
この音像世界には、高解像度で見ることとは違う、別の見方があることを思わせてくれる。
高解像度によって忘れられてしまった、粒の存在を。→

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高解像度で見るという比喩。
起きている事象や現象を、はっきりと、精密に見るということ。
しかし、高解像度で見るということは、一つの映像を見ているに過ぎないのではないかとも思う。

一つの映像は、とても多くの粒で出来ている。これを物事、事象や現象で例えるのであれば、粒は要因に変わるだろう。

高解像度で見るということは、もちろん大切。一体何が起きているのか、はっきりと、精密に見なければいけない。
しかし、もう一つの視点、粒子的視点も必要なのではないだろうか。

高解像度は、粒を細かくしたことも事実。
本当は、粒の存在を忘れるどころか、私達により細かく粒を見るよう、高解像度は要求しているのかもしれない。
かつてあったブラウン管テレビは、少し注視すれば、容易くその粒を見ることができたと記憶している。
私達は、どこまで細かい粒を見ることができるのだろう?

異なる映像では、共通する粒もある。
例えば、フェミニズムという映像と、外国人労働者という映像には、ケア労働という粒が共にあるのではないだろうか。
その共通の粒に気付くことは、新たな映像を作る可能性があるだろう。それは新たな連帯であり、希望であるのかもしれない。

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