【本を読む】「ある意味で、『思考』は(無意識的な心ではなく)意識的な心が行うあらゆることを指す」と切り出し、確かに「まだ定義が広すぎる」(チャールズ・ファニーハフ『おしゃべりな脳の研究』みすず書房、7)ので、読者とかみあわなくてもやむをえない。
とはいえ、寸前まで思っていなかったと感ずることばが出てきたりセレンディピティが生じたりはなぜなのか。
「思考は意識的で…言語的で…初めに受ける印象より密接に言語と結びついていることが多[く]…プライベートな[「ほかの人が立ち入れない領域で生じる」4]もので…通常、一貫性をも[ち]…能動的」(8)と(規定がふえるほど)同意できたりできなかったりしてくる。思考が頭に浮かんでいないような間は言語がどう関係するかもわからなさそうだ。
「この現象[思考]が脳内で起きている状態がどのようなものかを[「状態を…ものか」としてさしつかえなさそうに思う]、私は知っている。ただ、それを言葉にする方法を見つける必要がある」(9)、そういわれるとめまいがしてくる。
著者は自分の脳内の声を取り上げる(とりあえず必要は棚上げか)。

「私たちの脳内に響く言葉が、思考において非常に重要な役割を果たす…心理学者は、内言ーー心理学用語ではこのように呼ぶーーが、私たちの行動を調節したり、行動をとる気にさせたり、その行動を評価したり、自己を意識したりするのに役立つことを証明しつつある」(おしゃべりな脳の研究、13)として、そのあり方が分類とともにたっぷり説明される。
残念なことに(著者は気にしていないと感じたけれど)、思考として脳内に生ずることばに干渉し思いがけない方向へ引きずるような場合には触れていない。
簡単にいえば、A→B→C→と考えるつもりでありながら、無理強いでなくA→B2→(C2へ修正するつもりながら)C3→と進む現象には(第6章まで読んで)出会していない。

【『おしゃべりな脳の研究』を読む】
「私たちは自分の考えを独特の直接性で知ることができるが、自分自身の考えしか知ることができない 。…自分が自分の経験について確かな判断を下していると確信することは、とても難しい。なぜなら、自分の判断をほかの誰の判定とも比較できないから」(21)で、「ほかの人が立ち入れない領域で生じる」(4)という事情による(からコミュニケーションが深刻な課題ということになり、おしゃべりな脳とおしゃべりな人が並行していると示唆していそうに思う)。
さて「思考は言語で行われるが、私たちが考える内容は話す内容と同じではない」(37)のであれば、言語と呼びながら脳内と脳外(というか、コミュニケーションの場)で異なっていると解するしかない。
著者は(明言していないようだが)、場の移動があるとほのめかしているようだ。「人間の精神活動の多くは意識できない領域で起きるが、かなりの部分がある活動の主に知らされる」(5)にも移動の譬えは出ていた。
二つを照らし合わせると、領域の移動によって内容がかわることになり、領域間のコミュニケーションはどうなっているのか。

【『おしゃべりな脳の研究』を読む】
「多くの一般向けの科学書が…扱う精神的経験は、たいてい外界の出来事に対する脳の反応ばかり」(5)であるのと異なり、「思考は能動的で…外界からの指示を必要とせずに、自力で動き、何もなかったところから[外界への反応としてというより、というくらいの修飾か]何かを生み出す」(6)。これは脳の内部で「セルフトーク〔自分との対話〕」(40)つまり「話し手としての自分と、聴き手としての自分」にわけることで、少なくとも「テアイテトス」にまで遡れるらしい(41)。
「スポーツをする人の場合、セルフトークは、行動と覚醒を調節し、自分を激励し、困難な状況下で注意を何かへ向けることに貢献できる。それ以外の人の場合、自分に対する異なる視点をもたせてくれたり、している行為との間に批判的な距離をとらせてくれたりする」(50)。

【『おしゃべりな脳の研究』を読む】
「『パラ社会的』性質…を、私的発話はもっている。聴き手がいるという錯覚があると、私的発話が多くなる」(56)は、「子どもの私的発話のように、手紙は『パラ社会的』である。…たとえ反応を期待したり必要としたりしていなくても、反応が来る可能性に心を開いている」(117)と二度しか出てこない。
思考における対話としての局面に関して重要なので、途中をとばしてならべることにしよう。
「私たちは自分が何者かを理解するために、自分についての語りを紡ぐ。…その語りによって、私たちは物語の著者兼、語り手兼、主人公になる。私たちは、自分の脳内の声が奏でる不協和音なのである。…声は絶え間ないおしゃべりによって私たちを構築する」(107)とういうのを、ひとまずことばを通じて(たとえば映像によってと同様)「思考をモニターしている」といえそうに思う(モニターであれば、元のあり方に働きかけていると限らなくてすませうる)。
「自分自身と交わした対話[の]…始まる前は、その対話がどこへ行くのかわからないため、これまでには思いつかなかったアイディアをもたらすかもしれない」(111)

【『 』を読む】
「ミラノ司教のアンブロシウス〔三三九頃−三九七〕がしていた行為は、おそらく私たちにとって当たり前のことだろう。黙ったまま、頭の中で読んでいたのである。…読むという行為は、一般的に声を出して行うことだった。」(87)
「読む行為には聴衆が必要であり、読む行為に関する当時の社会通念では、その聴衆は自分自身のみでは決してなかった」(87-88)
「ほとんどの子どもは音読の仕方を覚え、その後、徐々に声を出さなくなり、最後には完全に黙って読むようになる。脳内で読むほうが、音読するより速い。視覚情報を音韻的(音声に基づく)符号に変換し、それから意味を引き出すかわりに、音声の段階を省き、視覚情報から意味情報へ直行できる。こちらのほうが、脳の仕事は少ない。」(89)
読むことも、親などが本を読んで聞かせることを模倣する学習の成果に見える。ことばにかかわる行為が、手話の場合も含めてコミュニケーションという相互行為を通して、段階を踏んで身につけるのだとすれば、黙読はいかに学習できるのか。

【『 』を読む】
「言語が子どもに思考を与えるわけではない。むしろ、言語以前に存在する何らかの知的能力を、言語が変容させる」(65)というくだりは、「言語は内在化されるちき変容するとヴィゴツキーhs述べた」(68)といいかえている。内在化という要約は、他とのコミュニケーション用でなく、だいたい自分の思考用に用いる言語ということであろうか。
さて「内言は外言の特性を数多く共有している。内なるおしゃべりは概して本人自身の声で行われ、その特徴的なリズムや、速さ、声音などを備えている」(77)

【『 』を読む】
「黙読は無音の経験ではない」(89)といいつつ、「どの時代でも、うまく読むためには、音声ありでのテキスト処理を組み合わせる必要がある」(90)に関しては、「読むのに関わる内言は、目に見えるサインを出す場合も多い。声を出さずに、唇だけで言葉を発音しながら読み方を学んでいる子どもを見ても、誰も驚かないだろう。すらすら読める人でさえ、特にテキストが難解なときは、読みながら舌を動かす」(91)あたりが説明としているのか。
字を覚えて間もないような幼児が本を朗読するさまは、字を丹念にたどたどしく追っているというより、本を見ながら記憶した一連を口にしているという印象のこともないかしら。
「小説における内言の描写、特に、ページ上で内言を再現しようと奮闘したモダニズムの巨匠による描写は、言葉が思考に入る際に起こす変容と、内言の起源が人の通常の会話にあることを伝えてくれるようなその性質を、比類なく豊かに描いている」(104)というのは、ホメロスから最古の例を出しているけれど、ゆっくり考える必要がありそうだ。

【『 』を読む】関心の違いによるのか、てきとーに読み流してしまうところもある。
「アメリカの心理学者、E・B・ヒューイは一九〇八年に…『内言があまりない読者もたまにはいるし、ほとんどの人の内言は圧縮された不完全な発話である。しかし、読んだ内容の内的な聞こえや発音が、圧倒的多数の人の読む行為を構成する一要素であることは絶対に間違いない…この内言は、日常生活の発話が省略された形ーーいわば影のコピーーーにすぎないが、それでも元のものがもつ本質的な特徴を維持している』」(90)
この「内的な聞こえや発音」は、音そのものでなくとりあえずいえば(元の文字から)音の聴覚イメージとして生成されているとして、その生成自体は感知できないといえそうだ(思考にはモニターできない局面があることへ、話をつなぎうると思うけれど)。

【『 』を読む】
「作家[ここまでの文章を読めばほとんど「小説の書き手」のみを指している]さまざまな方法で私たちの頭を声で満たす。口に出して話す架空の人物を提示し、私たちがーーときには話し声を聞いたことさえなくてもーー心の中でその声を再構築する能力を利用する[能力を働かすようにしむける?]。また、作家は登場人物が口に出さない言葉も盗み聞きする。対話する心、つまり内なる会話にふける想像上の人間たちを提示する」(104)
前後するが、「小説家は、登場人物が口で言うセリフを描くことだけに関心があるわけではない。登場人物が何を考えているかも読者に伝える。…『自由間接話法』…では、内面の思考の描写と一般的な語りの談話が織り交ぜられている」(98)。
「ボヴァリー夫人」から引いて「主人公が直接的な発話をわずかに行っているが、その後、思考が続[き]…一連の思考の枠を、著者が通常の標識(「彼女は考えた」など)で区切っていない」(99)というように、小説の技法として開発されてきた。広く詩や戯曲など台本の作家は採用しない語り方といってよさそう。

【『 』を読む】
「私たちは自分が何者かを理解するために、自分についての語りを紡ぐ…その語りによって、私たちは物語の著者兼、語り手兼、主人公になる。私たちは、自分の脳内の声が奏でる不協和音なのである。私たちは声を発するだけでなく、聴きもする。声は絶え間ないおしゃべりによって私たちを構築する」(107)
「内言は他者との対話を内在化することによって生まれ、社会的性質をずっともちつづける。私は、人間として発達中に他者と交わした会話のおかげで、いま自分と会話をしたり、私を構成する異なる声どうしの対話を指揮したりできる認知構造を身につけた」(108)
「私たちの心の中には大勢の存在がいる。思考は対話であって、人間の認知は、異なる視点どうしの会話の力を多数、維持している」(108)
では異なる声による対話としてなのか。つまりいきなり統合した声として響かないのであろう。

【『 』を読む】
第七章「私の合唱」はかなりおもしろかった。
ベケットの「名づけえぬもの(「と呼ばれる語り手」106)」が「脳内の複数の発話がどうまとまってひとつの自己になるのか、小説による一種の実験を行い、聞き慣れぬデチューン』された〔高さをずらした音を重ね、響きに厚みをもたせた〕形で内言の音を提示している」(107)と。「de-tune」は、通常の意味と少し違うという訳注から考えれば、たとえばヴァーグナーのような渾然一体となった音響というより、マーラーのように楽器それぞれの音がわかれて聞こえてくる、という風であろうか。
「複数の声からなる名づけえぬものの内言を読むときも…『その内容を動き出させる』ため、私たちは読者として自分の内的なおしゃべりを用い、ベケットの認知的なシミュレーションを自分の心の中で行う」(107-108)。自分の内言のあり方を参照できるのは、(時間の扱い方同様)開発の進む小説言語を読者が学び慣れたからでないか、ととりあえず考えたいのだけれど……

【『 』を読む】
「孤独な心は、実は合唱なのである。心はさまざな声でいっぱいだとさえいえる。心が本当にひとりひとりきりであることは決してない。このような社会的関係という状況の中で生まれ、その関係の力学によって形成される。他者の言葉が私たちの脳内に入る…私たちの思考こそが社会的なのである」(108)はいちおうわかる、あくまで譬喩として。
社会的関係といっても実人生で向かい合うのが個別のひとだとすれば、脳内対話の相手も、漠然とした社会とか万人でないといいたくなる。著者はたぶん何となく「対話」を使ったからなおいっそう過度の意味づけを嫌うかも知れない。あるいは脳内対話経験に違いがあるとしても、自分の脳内対話ではたいてい(それ以外ありえないといえるほど注意してこなかっただけか)、一人くらいと自分が登場するていどなのだ。
つまり「私たちの心の中には大勢の存在がいる。思考は対話であって、人間の認知は、異なる視点どうしの会話の力を多数、維持している」(108)という譬え話は同時のことなのか。

【『 』を読む】
「言語は異なる視点を表象することや、それらを出会わせることに特に有効だ…重要なのは、どれらの視点を機能させるためには、対話的思考の発達に、言語によって形成された社会的相互作用の経験が必要だということである」「110)。
著者は内言にある複数の声という観点に執着しているけれど、「表象する…出会わせる」を複数から単一へ統合するという働きとしてなぜ見ないのかは特に説明がない。
「対話的思考は社会的であり、特に乳幼児期と児童期に行われた、他の人間との相互作用によって構築される」(111)に口出す準備はない。でも社会で生ずる「分断」をよそに、脳内だと統合したり放置したり、そうそうはことを荒立てていないのでないか。

【『 』(岩波新書)を読む】
ちゃんと読んだことがないままずるずる来たのを読もうとすれば相当なきっかけが要るところで、『スピノザ全集』の予告を見てこれかと待つうち、特に案内もないまま『スピノザ:読む人の肖像』が出て読みだした。今150頁をすぎたあたり。

あまりいわれないかも知れないが、スピノザの特徴は明らかに書き残した分量が少ないことだ。残された手紙が少ないのはたとえば「『無神論者スピノザ』の悪名をヨーロッパ中に広め」(スピノザ、9)られていたその他の事情があるとしても、はるかに遡るプラトンやアリストテレスやアウグスティヌスの日本語版著作集より規模が小さい。
國分功一郎は、「スピノザには、自らが受け取ったいかなる知識をも批判的に検討し、そこに矛盾を見出すやその矛盾を手がかりにして整合的な解釈や考え方を作り出すことのできる知性が備わっていた」(31)ことから、「スピノザが徹底して読む人であった」(32)ことを書名や章題の「読む人」でも強調している、と想像できる。

「矛盾を手がかりにして整合的な解釈や考え方を作り出す」はとりあえず考えるとか思考とかに当るとして、考える人を自明としていないだけに、かえってスピノザは「どこ」で考えたのかと思えたのが読み始めであった。

【『 』(岩波新書)を読む】
未だ半分にもならないものの、この本の美点としてあげたいのは、読んでいるとあれこれ疑問がわいてきて(ととりあえずいうしかないけれど、疑いとすれば否定に近づきすぎるように思う)、しかもそう遠からずその点に書き及ぶことだ。
きちんと編成された本を解体→構築するように手間がかかってしまう…のをやらかせば、「スピノザは結果の分析からでは原因の真の認識は得られないのであって、まずが原因を認識し、そこから結果へと進まねばならないと考えている」「現実の存在を扱う場合、結果から出発しない限り、原因の真の認識にはたどり着けないとデカルトが考えていた」(スピノザ、58)
さて「然るべき出発点から、然るべき順序で観念が導き出されていくならば、その行為自体が我々にその観念が真であることを教えてくれる…真であることの保証は観念の獲得という行為そのものに内在している」(97)の出発点で「神」という用語が出てくるためどうしても承服しづらくなるけれど、出発から到達という流れが示されている。
ところが「スピノザは原理のようなものに最初から身を置くことはできない…できるだけ早くそれ[完全者の認識]を獲得することこそ目指さねばならないと考えていた」(101)

【『 』(岩波新書)を読む】
スピノザによると「完全な仕方で形成された発生的定義とは、観念における発生の秩序と事物における発生の秩序とが一致している定義で…事物が様々な特性を有し、それ故に様々な帰結をもたらすのと同様に、定義からはその対象の様々な特性や帰結が導き出される…これこそがスピノザの方法の実現であり、方法における『然るべき順序』とはこの観念の秩序」(スピノザ、105)と難所に出会した風。
哲学のカリキュラムに即して学んでいれば何のことはないのか知れない。「政治的動物」「ホモ・サピエンス」「ホモ・ファベール」といったスピノザと異なる流儀にの定義を例示しているはずなのに説明で活用されず、地形の凸凹に即した道なりが脇道へ入り込みそうと錯覚させるのであろうか。
國分功一郎は「スピノザがここでは議論を[「知性が、その能力の及ぶままに、永遠なる事物の認識に到達し得る…道が明らかになるであろう」と]成り行き任せにしている」(107)と指摘する。「人間の有限な知性には、外部の原因なしで、あれではなくこれを先に、これではなくあれを先に認識し始める力はない」つまり「認識作用を外部の原因によって発動されるものとする」(116)

【『 』(岩波新書)を読む】
スピノザの執筆順に扱うせいなのか見極めがつかずにいるが、「発生的定義は出発点ではない。それは然るべき手順を踏んで構築されねばならない到達地点」(スピノザ、130)というのは、「幾何学的様式とは、定義、公理、定理、証明などを[順次、とここでは補うべきか]積み重ねながら体系を構築していく論述法」(127)に見合う。しかし論の進め方が、原因から帰結を反転しているような印象を受ける。
重ねて「『エチカ』…において証明とは、定義あるいは観念からその対象の諸々の特質を導き出す作業を指す。ある対象が然るべき仕方で定義されたならば、その定義からはその対象のすべての特質が導き出される」(132-133)と念押しされると、かえっnて疑念を消さないようにとほのめかす風だ。
ついでながら「神の本性から無限に多くの物が無限に多くの仕方で生じ、また導き出されると述べている」(132)も、有限の人間からすればとうてい規定しがたい…というか、無規定にしか受け取れないのでないか(は不必要な無理解と切り捨てられずにいる)。
ここで急坂だと思いながら進む必要を感ずる。

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『スピノザ』(岩波新書)をノートとしながら読んでいたら、同時代といってよいホッブズに加えてハーシュマンの『退出・発言・忠誠』を読みたくなってきた(新訳はパスしてたのに)。
原文撞附き日本の古典を文庫で出すのは岩波文庫にとどまっているけれど(ごくたまに平凡社東洋文庫)、小学館は新編古典全集から出してくれないかなあ。

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